2021/11/12 (金)

「エターナルズ」と「ヤーラ」のハンサムな女たち。


ROTTEN TOMATOESをチェックしたとき「エターナルス」は51%の腐れトマトだった。賛否両論。テンポがのろい/繰り返しに飽きる/「デューン」と比べて世界観に劣る、といった批判がならんでいる。魂の名作「ノマドランド」で売れっ子監督のトップに立ったクローイ・ジャオが、大胆不敵にマーベル・ワールドに踏み込んで足をすくわれたのだろうか。「ハルク」でのアン・リーの無惨な失敗の二の舞なのか。そんな思いを抱えて、過日、旧スカラ座で「エターナルズ」を体験した。

そして、私は、クローイの類稀な才能を再確認したのだった。「エターナルズ」は大傑作だ。

否定論者の意見もわからないではない。が、繰り返しと言えないこともないエターナルズの離合集散のプロセスで育ち醗酵していくものがある。香り高き情感だ。私はその香りに酔い、涙した。



ドゥニ・ヴィルヌーブの「デューン」もその世界観とルックゆえ好きな映画だが、こちらも同じくらい好きだ。ルックに関して言えば、「エターナルズ」は「デューン」に及ばない。ところが、心でくくるなら、「デューン」は「エターナルズ」に遠く及ばない。

エターナルズ10人がそれぞれに素晴らしい。マーベル・ワールドとは思えぬきめ細かなアンビヴァレンスを、サイズの大小こそあれ全員が抱え、そのセンターにセルシ(ジェンマ・チャン)とイカリス(リチャード・マッデン)の悲恋がある。

マイノリティを大量にキャストしたアジアの女性監督の矜持もある。

ハリウッド大作ならアンジェリーナ・ジョリーが単独センターフォワードでボールはすべて彼女の足もとに集めるのに、ここでの彼女は控えめな役割に徹し、ジェンマは勿論、マ・ドンソク(英語名はドン・リー)やクメール・ナンジアニをサポートする。そうやって育ち上がるアジア勢の堂々たる存在感に、私のアジアの血はうずきっぱなしだった。



唯一の黒人ファストス(ブライアン・タイリー・ヘンリー)の扱いもうまい。お茶目パワフルに気分が高揚する見せ場をこなしたかと思うと、人類の究極の愚行であるヒロシマへの原爆投下を体験させている。彼の悲嘆もまた価値ある見せ場になっている。

サルマ・ハエック、リー・マクヒュー、ローレン・リドロフ、そして「チェルノブイリ」のロシア少年兵で私を魅了したバリー・コーガンも、全員が適材適所の名演を奏でる。

最大級のアンビヴァレンスを与えられたリチャード・マッデンが、喜劇と悲劇と史劇とスポーティなアクションの交差する天空で運動量マックスの活躍をするサマは圧巻といっていい。私の見るところ、マッデンは7代目ジェームス・ボンドの最有力候補なのだが、ボンドにならなくとも、彼のスター・パワーは一作ごとに光り輝いていくだろう。

そして、ジェンマ・チャン。このオックスフォード出身の才女に、私は「クレイジー・リッチ」で夢中になった。今回は、完璧なアジアの立ち役だ。

クローイはVFXをふんだんに使う映画であってもロケ場所を大切にし、自然光を巧みに取り入れたシーンを紡いでいる。そのアプローチは「ノマドランド」の延長上にある。撮影監督はマーベル・ワールドを熟知したヴェテランのベン・ディヴィス。クローイのパートナーでもあるカメラマンのジョシュア・ジェイムス・リチャーズはカメラ・オペレーターとして参加し、ベンの仕事ぶりを学びつつ、クローイのイメージをベンに伝える役目も担っている。



「ヤーラ」はNETFLIXで配信中のイタリア映画。ベルガモに住む13才の少女ヤーラが暴行され殺された実話の映画化で、その事件を担当した女検事の4年に及ぶ戦いを描いている。

「輝ける青春」を作ったマルコ・トゥリオ・ジョルダーナの作品ゆえ見てみたら、これもまたハンサム・ウーマンの活躍する傑作であった。

主役の女検事を演じたのはイザベラ・ラゴネーゼ。魅力的で、演技力も抜群。どこかで見た女優だなと思って調べたら、私が以前このブログでも褒めた「イタリアの父」のヒロイン、ミアだった!

あちらは、奔放なる嘘つき妊婦で二流の歌手。こちらは権威とも偏見とも戦う知的なシングル・マザーの女検事。そのどちらも、主演女優賞をまとめてもらってもおかしくない熱演だ。べた惚れ状態の私は、彼女の出演作を2本、ネットでオーダーしてしまった。12月クランクインの新作を準備中だというのに、だいじょうぶかよ、と監督の心が映画ファンの私を戒める。

そういえば、007にもどっぷりつかるつもりで、生みの親、カビー・ブロッコリとハリー・サルツマンがらみの本を二冊イギリスにオーダーした。それを読んで、サム・メンデスの音声解説を聞いて、ダニエル・クレイグの英雄談を綴りたいと思っている。ま、年内は無理だろうけど。


2021/10/30 (土)

驚いた。

私の「最後の決闘裁判」評が原因で、なんとまあ、私がレイピストを礼賛する唾棄すべき人間だという批判がネットに出回っているらしい。この映画評をどう読めばそんな解釈になるのか。不思議だ。理解に苦しむ。

傲慢、最悪の人間と書いている人もいたな。氏素性を明かさずこんな批評を書いたら、そりゃ傲慢さ。私は、映画作りの経験値をもとに懇切丁寧に書いたから、傲慢よりは親切に近いと思っている。「燃えよ剣」で存在を消された役者にとっては傲慢かもしれないけれど。

いずれにせよ、私は、自作で、男と女をイコールに描き続けているんだけどね。どちらかといえば、女性が強くてカッコよくて。だから、「決闘裁判」のマルグリットにも、もっと強く、果敢に君臨して欲しかった。ジョディ・コマーの演技力ならば、それが出来た筈なのに・・・。



レイプがあった。それが真実だ、とリドリー・スコット作品は描いている。だから、その事実だけをヒロインが叫ぶのでは創意工夫に欠ける。ひとりの女の勇気を描く筈が、無暴を描くことになってしまう。殊に、男がすべてのルールを決める暗黒の中世女性蔑視社会で、立ち上がったマルグリットの姿を無暴ではなく勇気ある行為として語るための一言が、映画では足りないのではないか、と私は書いたつもりだ。マルグリットの戦いを否定しているのではない。

大審問のような公の場では「レイプされた。それが真実」だけしか言えないことはわかる。個と個の対決においては、レイピストのジャックに対して、あるいは、彼女を敵視する姑に対して、映画のヒロインとして発する一言、男社会に対する宣戦布告の一言があるだろう、というのが私の「決闘裁判」評の骨子だ。



映画作りに於ける基本中の基本は、主要登場人物が抱えたアンビヴァレンスを描くことであると、私は教えられた。レイピストとして女性蔑視の輩に組みしたまま死んでしまうジャックにも、そして戦うマルグリットにも、心の葛藤=アンビヴァレンスをマックスに立ち上げる要素がありながら、リドリー・スコットは踏みこんで行かなかった。ジャックの葛藤については、形としてのざんげはあるが、教会は男の立場を養護し、ジャックはまるめこまれそこで思考を停止させた。

私の言い方に欠けている部分があるとすれば、史実のジャック・ル・グリへの言及だろう。アダム・ドライヴァー演ずるジャックは映画の第二章前半でマルグリットを自分と同等、あるいはそれ以上の才女として崇める洗練された知性を見せる。

そういった知性が実際のジャックにあったなら、絶望的な戦いを戦うマルグリットの姿に深く共鳴し、自分の強姦行為を悔いたかもしれない。償いとしての決闘裁判の死を選んだかもしれない。そうであれば、彼の死は、高貴だ。



どういう形であれ、人々が「最後の決闘裁判」に関心を払ってくれるのは嬉しい。力作であることは間違いない。こういった些細な騒ぎでも、観客動員の手助けになれば幸いだ。

「燃えよ剣」は観客を数十人失ったかもしれないが、その分は明日の「そこまで言って委員会」や11月2日の舞台挨拶で挽回できるだろう。

今回の教訓。どこでどんな災難や誹謗中傷が待ち受けているかわからない。この糞忙しい時期に、私も随分余計なことをしたもんだ。



余計ついでに、なんとか時間を見つけてダニエル・ボンドのおさらいをしてみたいと思っている。ドキュメンタリーの「BEING JAMES BOND」を見て、今まで以上にダニエル・クレイグの007を崇めるようになりました。

「カジノ・ロワイヤル」「慰めの報酬」「スカイフォール」「スペクター」を二日間で見直して、「スカイフォール」&「スペクター」が文句なしの007シリーズ最高傑作であることを存分に理解したこともある。

中学時代に「007は殺しの番号」に触れた私の世代にとって、ジョン・バリー作曲の007のテーマ曲は「永遠に不滅」なのです。


2021/10/30 (土)

驚いた。

私の「最後の決闘裁判」評が原因で、なんとまあ、私がレイピストを礼賛する唾棄すべき人間だという批判がネットに出回っているらしい。この映画評をどう読めばそんな解釈になるのか。不思議だ。理解に苦しむ。

傲慢、最悪の人間と書いている人もいたな。氏素性を明かさずこんな批評を書いたら、そりゃ傲慢さ。私は、映画作りの経験値をもとに懇切丁寧に書いたから、傲慢よりは親切に近いと思っている。「燃えよ剣」で存在を消された役者にとっては傲慢かもしれないけれど。

いずれにせよ、私は、自作で、男と女をイコールに描き続けているんだけどね。どちらかといえば、女性が強くてカッコよくて。だから、「決闘裁判」のマルグリットにも、もっと強く、果敢に君臨して欲しかった。ジョディ・コマーの演技力ならば、それが出来た筈なのに・・・。



レイプがあった。それが真実だ、とリドリー・スコット作品は描いている。だから、その事実だけをヒロインが叫ぶのでは創意工夫に欠ける。ひとりの女の勇気を描く筈が、無暴を描くことになってしまう。殊に、男がすべてのルールを決める暗黒の中世女性蔑視社会で、立ち上がったマルグリットの姿を無暴ではなく勇気ある行為として語るための一言が、映画では足りないのではないか、と私は書いたつもりだ。マルグリットの戦いを否定しているのではない。

大審問のような公の場では「レイプされた。それが真実」だけしか言えないことはわかる。個と個の対決においては、レイピストのジャックに対して、あるいは、彼女を敵視する姑に対して、映画のヒロインとして発する一言、男社会に対する宣戦布告の一言があるだろう、というのが私の「決闘裁判」評の骨子だ。



映画作りに於ける基本中の基本は、主要登場人物が抱えたアンビヴァレンスを描くことであると、私は教えられた。レイピストとして女性蔑視の輩に組みしたまま死んでしまうジャックにも、そして戦うマルグリットにも、心の葛藤=アンビヴァレンスをマックスに立ち上げる要素がありながら、リドリー・スコットは踏みこんで行かなかった。ジャックの葛藤については、形としてのざんげはあるが、教会は男の立場を養護し、ジャックはまるめこまれそこで思考を停止させた。

私の言い方に欠けている部分があるとすれば、史実のジャック・ル・グリへの言及だろう。アダム・ドライヴァー演ずるジャックは映画の第二章前半でマルグリットを自分と同等、あるいはそれ以上の才女として崇める洗練された知性を見せる。

そういった知性が実際のジャックにあったなら、絶望的な戦いを戦うマルグリットの姿に深く共鳴し、自分の強姦行為を悔いたかもしれない。償いとしての決闘裁判の死を選んだかもしれない。そうであれば、彼の死は、高貴だ。



どういう形であれ、人々が「最後の決闘裁判」に関心を払ってくれるのは嬉しい。力作であることは間違いない。こういった些細な騒ぎでも、観客動員の手助けになれば幸いだ。

「燃えよ剣」は観客を数十人失ったかもしれないが、その分は明日の「そこまで言って委員会」や11月2日の舞台挨拶で挽回できるだろう。

今回の教訓。どこでどんな災難や誹謗中傷が待ち受けているかわからない。この糞忙しい時期に、私も随分余計なことをしたもんだ。



余計ついでに、なんとか時間を見つけてダニエル・ボンドのおさらいをしてみたいと思っている。ドキュメンタリーの「BEING JAMES BOND」を見て、今まで以上にダニエル・クレイグの007を崇めるようになりました。

「カジノ・ロワイヤル」「慰めの報酬」「スカイフォール」「スペクター」を二日間で見直して、「スカイフォール」&「スペクター」が文句なしの007シリーズ最高傑作であることを存分に理解したこともある。

中学時代に「007は殺しの番号」に触れた私の世代にとって、ジョン・バリー作曲の007のテーマ曲は「永遠に不滅」なのです。


2021/10/29 (金)

パワフルな「最後の決闘裁判」に足りないもの。


14世紀フランスを見事に再現して映像パワフルなリドリー・スコットの「最後の決闘裁判」。構成的には黒澤明の代表作であり名作中の名作である「羅生門」に似ている。しかし、この作品は「羅生門」のように異なる視点で語られる異なる「真実」の「薮の中」を追求していくわけではない。女性が男性に隷属する中世に於ける「女の勇気」がテーマであるかのように展開し、その雑なツメで失速している。

ニコール・ホロフセナー(女性)、ベン・アフレック&マット・デイモンの脚本家トリオが緩んだネジをしっかりと締めていれば、あるいはリドリーに繊細な演出心があれば、「羅生門」に匹敵する名作の列に加わることができたかもしれないのに。

この先はネタバレも含むアプローチゆえ、まっさらな状態で「決闘裁判」を体験したい方は、作品を見たあとで読んでください。見る前に、映画作りに携わるものからの微に入り細にわたる分析及び提言を予備知識として知りたい方はこのまま読み進めてくだされませ。



主要登場人物はsquire(従騎士と訳されている)からknight(騎士)になる性粗暴な男ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)、その戦友で従騎士のまま領主ピエール伯爵の寵愛を得て出世していくジャック・ル・グレ(アダム・ドライヴァー)、ジャンの妻マルグリット(ジョディ・コマー)の三人。第一章がジャンの真実、第二章がジャックの真実、第三章がマルグリットの真実という順で語られ、最後の決闘裁判に突入していく。

第一章を見ながら、私は、なんと舌足らずなエピソードの連続なのかと、ジャンを中心とした14世紀後半の騎士道の在り方に退屈した。その不満は、第二章に入って一気に解決する。ジャックを中心に据えると物語の骨子がはっきりと際だち、ジャンとジャックのコントラストも明確になる。アダム・ドライヴァーが溌剌と、そして小気味よくジャックの魅力を撒き散らし、その受け皿となるピエール伯のベン・アフレックが久しぶりに魅力的な存在感を発揮する。

ジャックは下賤の生まれながらも不断の努力で知性と武力と男の色気に磨きをかけ、ピエール伯にも数多の女たちにも愛されている。マルグリットの知性と勇気もジャックとイコールであり、祝宴の席での出会いで二人はその情感を分かち合う。情を交わしたかのようなシーンも点描される。



いずれにせよ、マルグリットはジャックと結ばれるべき才女である。ジャンの妻になったのは、彼女の父親の汚名が起因している。ジャンは粗暴だが、名家の出身。マルグリットの父はフランスを裏切った過去があるが裕福。それゆえの政略結婚の犠牲者が彼女だ。

結婚後は、タネを仕込むための妻の務めにひたすら従事するだけ。ジャンのセックスは愛撫もなく挿入と射精のみ。ところが五年経っても、マルグリットは身ごもらない。当時、騎士、僧侶から国王に至るまで、支配階級のフランス男たちは一様に、快楽なくして懐妊なしの考え方に囚われていたことも描かれる。

順風満帆なジャックの人生に対して、堕ちて行くジャンが嫉妬する様も点描される。そんなさなか、強姦事件が起きる。マルグリットに恋いこがれたジャックが、ジャンの留守に彼の居城に、忠実な従者アダム・ルーヴェルを使って侵入、愛を告白し、強引に姦淫する。現代人の目から見れば、疑う余地のない強姦シーンとして描写される。



ジャックは夫ジャンにはこのことを話すな、殺されるぞ、というレイピストまんまのセリフを残して去り、私を落胆させる。ジャックって、この程度の男なの?という疑問が先ず芽生える。

マルグリットは性行為の最中、呻くだけ。終わったあとも泣くだけ。そして、帰宅した夫に強姦されたと告白し、ジャンはジャックへの怒りからことを公にして、国王シャルル六世の裁きを乞うことになる。

映画の真意は、立ち上がったマルグリットの勇気を描く、ということだが、その勇気を具体化した言葉は一切、映画では描かれない。強姦された、それが真実、と彼女は叫ぶだけだ。

一方のジャックは強姦ではないという。口では拒みながらも体が受け入れた、つまり、彼女は歓びを感じていた、と。ところが、性行為の描写自体、ストレートな強姦なので、彼女の下半身をまさぐって、その体の反応に喜ぶジャックの描写も何もない。そういうことのすべてが、第三章、マルグリットの真実で語られるのかというと、それもない。

それどころか、国王の前での大審問という対決の場も、「マルグリットの真実」とくくられたチャプターで展開するため、ジャンやジャックは、傍聴席で聞き入る姿を点描されるだけなのだ。心理描写ゼロ。

女の権利が男たちによって踏みにじられるのはよくわかる。しかし、主役グループ三人の心の襞に映画は踏み込まない。



とりわけ、こういう事態になることをある程度察知していたマルグリットの、夫への告白の真の理由がわからないままだし、ジャックの心理に踏み込まない作り手の怠慢にも次第に腹が立って来る。こういう流れにおいて、彼女の告発は勇気ではなく、知性も品格もない女の無暴に堕してしまうのだ。

ジャックの心理でいえば、彼のいうような「愛の心」があったなら、この審問と、その結果としての決闘裁判は「愛を選ぶか名誉を選ぶか」の究極の葛藤を生むことになる。つまり、勝者になって名誉を守ることは告発者には死をもたらす。決闘の相手はジャンであっても、彼を殺せば、彼女を火あぶりの死刑台に送り込む。愛するものを残酷刑にしてまで守りたい名誉なのかという主役にふさわしい高貴なアンビヴァレンスだ。その葛藤が一切示されない。

それらしき思いは一瞬、決闘のクライマックスで、マルグリットの足枷に目をやり、逆襲されるくだりでは描かれるが、そこに至る心理の傾斜は皆無だ。



私は、大審問を第四章として独立させるべきだったと思う。そして、思考力がほとんどないジャンはともかく、ジャックの葛藤にエピソードを裂くべきだった。

葛藤の会話を展開できる駒はある。従者アダムだ。映画は、この従者アダムを終始シニカルな傍観者として点描するだけだが、この人物を有効活用すれば、ここに「羅生門」に於ける志村喬の樵に似た「無垢の眼差」を確立することができた。

映画では、最後にちらりと映るだけだが、主人が敗北したことによって、従者アダムも殺されている。決闘裁判は、ジャンが死ねばマルグリットが処刑されることはくどいくらい語られるが、ジャックの側も、そのリスクを負っている。強姦事件の手引きをした従者アダムも罪に問われ、主人が死ねば彼も処刑される運命にあった筈だ。従者にしてみれば、主人が「愛」に惑わされることなく「名誉」をひたすら求めることを渇望する。彼が無垢で主人を盲目的に信奉する下僕ならば哀れも増すし、ジャックの苦悩も深まる。原作にはおそらく、それに類する場面があるのではないだろうか。この役をおろそかにしてしまった脚本、演出の不備を、私は軽蔑する。



さて、マルグリット。

ジョディ・コマーは好演といえるが、ヒロインにふさわしい攻めの一言がない。映画で描かれなかったマルグリットの告発の真の理由は、私ならばこういうふうに解釈し、マルグリットに言わせる。

私は毎晩、夫にレイプされていた。あなたは夫とは違うと思っていた。でも同じだった。

というのが一つ。これは、強姦された直後、ジャックに言う場合だ。この一言があれば、以降、彼女はこの時代の男たちすべてに対して戦いを挑む姿勢がはっきりする。これは勇気であって、無暴ではない。

ジャンが彼女のこの姿勢を理解し、ふたりは(中世フランスの論理に従うならば)快楽の伴う性行為を初めて体験し、懐妊できたということにもつなげられる。ジャンのポイントにもなる。

もうひとつの可能性は、マルグリットが相容れない姑(ハリエット・ウォルター)を使う場合だ。姑は自分も強姦されたが、口をつぐんだことを、マルグリットに告げる。ならば、マルグリットはこう切り返すべきだ。

「私はあなたの息子に毎晩、強姦された。ジャックは違うと思っていたが、男は皆同じだった。だから私は立ち上がる」

この一言を返すなら、姑がおおいに反省しマルグリットの戦列に加わることにもなる。女たちの心意気の展開だ。

こんな思考プロセスで「最後の決闘裁判」はAマイナス評価となり、私の残念映画のリストに組み込まれた。史実として、私は、ジャック・ル・グリは高貴な人だったと思う。彼は、敗北を選ぶことで愛も名誉も守ったのだろう。

そういう描く人物への思いやデリカシーが、この映画には欠けている。


2021/10/29 (金)

パワフルな「最後の決闘裁判」に足りないもの。


14世紀フランスを見事に再現して映像パワフルなリドリー・スコットの「最後の決闘裁判」。構成的には黒澤明の代表作であり名作中の名作である「羅生門」に似ている。しかし、この作品は「羅生門」のように異なる視点で語られる異なる「真実」の「薮の中」を追求していくわけではない。女性が男性に隷属する中世に於ける「女の勇気」がテーマであるかのように展開し、その雑なツメで失速している。

ニコール・ホロフセナー(女性)、ベン・アフレック&マット・デイモンの脚本家トリオが緩んだネジをしっかりと締めていれば、あるいはリドリーに繊細な演出心があれば、「羅生門」に匹敵する名作の列に加わることができたかもしれないのに。

この先はネタバレも含むアプローチゆえ、まっさらな状態で「決闘裁判」を体験したい方は、作品を見たあとで読んでください。見る前に、映画作りに携わるものからの微に入り細にわたる分析及び提言を予備知識として知りたい方はこのまま読み進めてくだされませ。



主要登場人物はsquire(従騎士と訳されている)からknight(騎士)になる性粗暴な男ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)、その戦友で従騎士のまま領主ピエール伯爵の寵愛を得て出世していくジャック・ル・グレ(アダム・ドライヴァー)、ジャンの妻マルグリット(ジョディ・コマー)の三人。第一章がジャンの真実、第二章がジャックの真実、第三章がマルグリットの真実という順で語られ、最後の決闘裁判に突入していく。

第一章を見ながら、私は、なんと舌足らずなエピソードの連続なのかと、ジャンを中心とした14世紀後半の騎士道の在り方に退屈した。その不満は、第二章に入って一気に解決する。ジャックを中心に据えると物語の骨子がはっきりと際だち、ジャンとジャックのコントラストも明確になる。アダム・ドライヴァーが溌剌と、そして小気味よくジャックの魅力を撒き散らし、その受け皿となるピエール伯のベン・アフレックが久しぶりに魅力的な存在感を発揮する。

ジャックは下賤の生まれながらも不断の努力で知性と武力と男の色気に磨きをかけ、ピエール伯にも数多の女たちにも愛されている。マルグリットの知性と勇気もジャックとイコールであり、祝宴の席での出会いで二人はその情感を分かち合う。情を交わしたかのようなシーンも点描される。



いずれにせよ、マルグリットはジャックと結ばれるべき才女である。ジャンの妻になったのは、彼女の父親の汚名が起因している。ジャンは粗暴だが、名家の出身。マルグリットの父はフランスを裏切った過去があるが裕福。それゆえの政略結婚の犠牲者が彼女だ。

結婚後は、タネを仕込むための妻の務めにひたすら従事するだけ。ジャンのセックスは愛撫もなく挿入と射精のみ。ところが五年経っても、マルグリットは身ごもらない。当時、騎士、僧侶から国王に至るまで、支配階級のフランス男たちは一様に、快楽なくして懐妊なしの考え方に囚われていたことも描かれる。

順風満帆なジャックの人生に対して、堕ちて行くジャンが嫉妬する様も点描される。そんなさなか、強姦事件が起きる。マルグリットに恋いこがれたジャックが、ジャンの留守に彼の居城に、忠実な従者アダム・ルーヴェルを使って侵入、愛を告白し、強引に姦淫する。現代人の目から見れば、疑う余地のない強姦シーンとして描写される。



ジャックは夫ジャンにはこのことを話すな、殺されるぞ、というレイピストまんまのセリフを残して去り、私を落胆させる。ジャックって、この程度の男なの?という疑問が先ず芽生える。

マルグリットは性行為の最中、呻くだけ。終わったあとも泣くだけ。そして、帰宅した夫に強姦されたと告白し、ジャンはジャックへの怒りからことを公にして、国王シャルル六世の裁きを乞うことになる。

映画の真意は、立ち上がったマルグリットの勇気を描く、ということだが、その勇気を具体化した言葉は一切、映画では描かれない。強姦された、それが真実、と彼女は叫ぶだけだ。

一方のジャックは強姦ではないという。口では拒みながらも体が受け入れた、つまり、彼女は歓びを感じていた、と。ところが、性行為の描写自体、ストレートな強姦なので、彼女の下半身をまさぐって、その体の反応に喜ぶジャックの描写も何もない。そういうことのすべてが、第三章、マルグリットの真実で語られるのかというと、それもない。

それどころか、国王の前での大審問という対決の場も、「マルグリットの真実」とくくられたチャプターで展開するため、ジャンやジャックは、傍聴席で聞き入る姿を点描されるだけなのだ。心理描写ゼロ。

女の権利が男たちによって踏みにじられるのはよくわかる。しかし、主役グループ三人の心の襞に映画は踏み込まない。



とりわけ、こういう事態になることをある程度察知していたマルグリットの、夫への告白の真の理由がわからないままだし、ジャックの心理に踏み込まない作り手の怠慢にも次第に腹が立って来る。こういう流れにおいて、彼女の告発は勇気ではなく、知性も品格もない女の無暴に堕してしまうのだ。

ジャックの心理でいえば、彼のいうような「愛の心」があったなら、この審問と、その結果としての決闘裁判は「愛を選ぶか名誉を選ぶか」の究極の葛藤を生むことになる。つまり、勝者になって名誉を守ることは告発者には死をもたらす。決闘の相手はジャンであっても、彼を殺せば、彼女を火あぶりの死刑台に送り込む。愛するものを残酷刑にしてまで守りたい名誉なのかという主役にふさわしい高貴なアンビヴァレンスだ。その葛藤が一切示されない。

それらしき思いは一瞬、決闘のクライマックスで、マルグリットの足枷に目をやり、逆襲されるくだりでは描かれるが、そこに至る心理の傾斜は皆無だ。



私は、大審問を第四章として独立させるべきだったと思う。そして、思考力がほとんどないジャンはともかく、ジャックの葛藤にエピソードを裂くべきだった。

葛藤の会話を展開できる駒はある。従者アダムだ。映画は、この従者アダムを終始シニカルな傍観者として点描するだけだが、この人物を有効活用すれば、ここに「羅生門」に於ける志村喬の樵に似た「無垢の眼差」を確立することができた。

映画では、最後にちらりと映るだけだが、主人が敗北したことによって、従者アダムも殺されている。決闘裁判は、ジャンが死ねばマルグリットが処刑されることはくどいくらい語られるが、ジャックの側も、そのリスクを負っている。強姦事件の手引きをした従者アダムも罪に問われ、主人が死ねば彼も処刑される運命にあった筈だ。従者にしてみれば、主人が「愛」に惑わされることなく「名誉」をひたすら求めることを渇望する。彼が無垢で主人を盲目的に信奉する下僕ならば哀れも増すし、ジャックの苦悩も深まる。原作にはおそらく、それに類する場面があるのではないだろうか。この役をおろそかにしてしまった脚本、演出の不備を、私は軽蔑する。



さて、マルグリット。

ジョディ・コマーは好演といえるが、ヒロインにふさわしい攻めの一言がない。映画で描かれなかったマルグリットの告発の真の理由は、私ならばこういうふうに解釈し、マルグリットに言わせる。

私は毎晩、夫にレイプされていた。あなたは夫とは違うと思っていた。でも同じだった。

というのが一つ。これは、強姦された直後、ジャックに言う場合だ。この一言があれば、以降、彼女はこの時代の男たちすべてに対して戦いを挑む姿勢がはっきりする。これは勇気であって、無暴ではない。

ジャンが彼女のこの姿勢を理解し、ふたりは(中世フランスの論理に従うならば)快楽の伴う性行為を初めて体験し、懐妊できたということにもつなげられる。ジャンのポイントにもなる。

もうひとつの可能性は、マルグリットが相容れない姑(ハリエット・ウォルター)を使う場合だ。姑は自分も強姦されたが、口をつぐんだことを、マルグリットに告げる。ならば、マルグリットはこう切り返すべきだ。

「私はあなたの息子に毎晩、強姦された。ジャックは違うと思っていたが、男は皆同じだった。だから私は立ち上がる」

この一言を返すなら、姑がおおいに反省しマルグリットの戦列に加わることにもなる。女たちの心意気の展開だ。

こんな思考プロセスで「最後の決闘裁判」はAマイナス評価となり、私の残念映画のリストに組み込まれた。史実として、私は、ジャック・ル・グリは高貴な人だったと思う。彼は、敗北を選ぶことで愛も名誉も守ったのだろう。

そういう描く人物への思いやデリカシーが、この映画には欠けている。


 a-Nikki 1.02