2020/12/14 (月) ビルドゥングスロマン。
■ 随分久しぶりにこのフレーズを使う。ビルドゥングスロマン。自己形成小説。
COMING-OF-AGEものというと基本は少年少女の通過儀礼を扱っている作品だが、ビルドゥングスロマンとなると、もっと広域年代の成長物語ということになる。私の作品でいえば、「栄光と狂気」がど真ん中のそれ。
でも基本的に、殆どすべての原田映画にそれはある。「燃えよ剣」も基本はそこだ。司馬遼太郎作品に私が惹かれるのも、そこにある。
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集英社発行の季刊誌「KOTOBA」の2021年冬の号は「司馬遼太郎解体新書」と銘打っている。三部構成17人のKOTOBAによる司馬遼太郎解体作業が実に面白い。その一人に私も加えて戴いたので「燃えよ剣」映画化の思いを語った。
中でも興味深かったのは歴史家清水克行氏の「司馬のエロス」分析だ。清水氏は「とくに司馬作品の主人公たちは、かなりの確率で好色かつ精力絶倫の性豪であり、物語の前半部で、きまって女性と情交を演じるという特徴がある。」として、司馬作品12の中・長篇のなかで「性的な記述が、どのあたりの箇所で出現するかを計測した」表まで掲載してくれている。
確かにそのとおりで、この12作には入っていないが、私が10代のころ読んだ「戦雲の夢」も「尻啖え孫市」もそうだった。
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ただし「生真面目な人が無理してエロチックな描写をしようとしているようで、どうしても違和感がぬぐえない。」とか、「ストーリー上も、“濡れ場”シーンはほぼ無意味であり」と書かれると、おいおいおい何か誤解してないか、と文句をつけたくなる。
清水氏は私よりも遥かに濃密に司馬作品を研究分析されているので、そこに噛みつく意識は毛頭ない。が、彼は私よりも22才年下の歴史家だ。ゆえに、年長者として、あるいは歴史家に対する映画監督としての単純な文句をつける。
「濡れ場」に関して、私はムダだとは微塵も思わないし、司馬先生が編集者の注文で「不本意ながら行っていた読者サービス」とも思わない。
なぜならば、前半に性描写のある司馬作品のほとんどすべてはビルドゥングスロマンもしくはその体裁を持っている。ビルドゥングスロマンに不可欠なのは、人生前半の、殊に10代における性体験という通過儀礼だ。
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だから、司馬作品の主人公たちは、その後の人生では「伏線回収もされないまま放置され」る異性(稀に同性)と束の間出会うのであって、これは決してムダではないし、不本意な読者サーヴィスでもない。それが主人公にとっての初体験でなくとも、読者にとっては主人公の性行為を小説前半部で「体験する」メタフォアとしての初体験となっている。
その顕著な例は、司馬遼太郎後期最高傑作の一本でありながら、なぜか同誌の「今だから読みたい!司馬遼太郎厳選42作品解説」でも無視されてしまう「義経」にある。義経の初体験のヴィヴィッドな描写、人物の配置、すべてがマエストロの絶妙なオーケストレーション・・・。
と、ここまでが前フリ。
書きたいのは、ビルドゥングスロマンの王道を行くマスターピース「クィーンズ・ギャンビット」のことだ。
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NETFLIX2020年度最大のヒット作となったミニ・シリーズだ。タイトルが示すように、チェス・プレイヤーの世界を描いた作品だ。時代背景は主に1960年代。孤児の少女が、施設の用務員からチェスを学び、天性の素質に磨きをかけ、ケンタッキー州のチャンピオンになり、全米チャンピオンにも輝き、ついにはチェスの聖地モスクワに乗り込み、自己の尊厳をかけて伝説のチェス・プレイヤーと雌雄を決する物語だ。
と書くと、スポコン根性もの系かと思われがちだが、主人公には薬物中毒やアルコール依存症といった負の試練がリアルに与えられている。そこを乗り越えていく手助けをするのが、盤上のポーンやナイトやビショップなどに例えられる、彼女の人生を彩る人々なのだ。
こういった脇役それぞれの描き込みも見事だが、なんといっても、15才から20才までのヒロイン、ベス・ハーモンを演じたアニャ・テイラー・ジョイの神懸かりの存在感、眼光に魅了される。
評価としては、エピソード1、2、5、7がA+。3、4がAでベスがロック・ボトムに堕ちて行く6がA-。総合評価は最終話の大興奮盛り上がりゆえA+。
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脚本・演出のスコット・フランクが素晴らしい。撮影のスティーヴ・メイズラーが素晴らしい。60年代のファッションが素晴らしい。アニャ以下のキャストが、端役の端っこに至るまで完璧に60年代の顔を並べて素晴らしい。
女王にチェスの最初の手ほどきをする用務員を演ずるビル・キャンプは、私が今まで見て来たすべてのビル・キャンプの最高峰だ。ベスを養女に迎える義母のマリエル・ヘラー(彼女は監督としてもめきめき頭角を現している)にも唸った。
「バスターのバラード」と「オールド・ガード」で私を虜にしたハリー・メリング(アニャは「ハリー・ポッター」の彼に心ウキウキだったらしい)、「ゴッドレス」では簡単に殺されたトーマス・ブロディ・サングレン、ベスのソウルメイトのジョリーンを演じたモーゼス・イングラム、そしてチェスの支配者ボルゴフを演じたポーランドのスター、マルチン・ドロチンスキー。適材適所の完璧なキャスティングだ。
スコットとメイズラーは2017年の「ゴッドレス」でも組んで、いい仕事を残している。「ゴッドレス」は以前ここでも書いた正統派ウェスタンのミニ・シリーズだ。今回の映像は、軽々と前作シリーズをしのいでいる。(メイズラーは長いこと、スピールバーグ組でヤヌス・カミンスキーの撮影助手として活躍していた。)
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私は、途中まで、ベス・ハーモンのモデルは誰なのだろうと考えながら見ていた。それほど、チェス・マッチのすべてがディテール細かくリアルなのだ。
とはいっても、基本は、チェスのルールを知らないものでも引き込まれる演技のニュアンスがボード上の動きより優先されている。
しかも、描かれるすべてのチェス・マッチを、すべて異なった映像コンセプトで撮っている。これは、見事だ。
話が進むにつれ、ベスは完全にフィクショナルなキャラクターであることが納得できるのだが、そうなってくると、別の疑問がアタマを持ち上げて来る。
この、天才のかかえたアンビヴァレンスと負のスパイラル、絶望の淵から這い上がるその這い上がり係数と犠牲者、といった構造に、二番煎じなどというレヴェルではない、もっと高貴なデジャヴ感を覚えたのだ。
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夢中になって7話まで見終えて、改めて、原作クレジットに目が行った。ウォルター・テヴィス。どこかで目にしたぞ。
私の記憶力も劣化しつつある。IMDBでチェックするまでウォルター・テヴィスの名前を忘れていたとは・・・。
テヴィスはビルドゥングスロマンの名作中の名作「ハスラー」(1961)の原作者だ。「クィーンズ・ギャンビット」はハスラーたちのプール・テーブルを、チェス・ボードに変化させたテヴィス晩年の傑作なのだ。これだけの作品が邦訳されなかったのは、日本の出版関係者のチェスへの無理解が原因だろう。
テヴィスは1928年生まれで1959年に発表した「ハスラー」で人気作家となり、1983年に「クィーンズ・ギャンビット」を残して翌年逝った。
映画「ハスラー」はロバート・ロッセンの最高傑作であり、ポール・ニューマンの最高傑作の一本であり、ジャッキー・グリーソンもジョージ・C・スコットもパイパー・ローリーも、完璧なアンサンブル・キャストだった。私は見直す度に、その世界観に魅了されている。
「クィーンズ・ギャンビット」も、そういった神々の映画の列に加わった。
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