2019/10/19 (土)

「SORCERER 恐怖の報酬」分析。何が間違っていたのか。その2。


ようやくニトロ運搬トラックが出発という時点で、あれれ、となる。一台目の車両にシャイダーとラバル。15分後出発する二台目にクレメールとアミドゥ。言葉を削ぎ落とす方向で動くフリードキンは格好の見せ場をスルーして、つまらない交代劇で時間をつぶし出発させてしまう。道中の情報集めも戦略もなし。先頭車両争いもなし。おかしくないか?

基本はジャングルの悪路を超えて行く設定なのだ。先頭車両がミスって爆発したら道路に穴が開く。二台目は圧倒的に不利だ。殊に爆破の専門家アミドゥがそこにこだわらず二番手を甘受するのはおかしい。言葉と知恵を駆使して先頭争いをするのが常識。底辺を生きる男のサヴァイヴァル倫理をかけて。そういうシーンからキャラクターは立ち上がる。フリードキンはそこに気付かない。



最大の見せ場「吊り橋綱渡り」は川を変え、国を変え、プラン変更を余儀なくされたシークェンスだ。このシーンを撮るためだけで製作費の25%を費やしたことになる。ここだけは、今見ても凄い。息を呑むこと必至・・・ではあるが、肩すかしの感もある。つまり、先頭車両の危機状況は、車両底部の煽りショットに繋げて通過したことにしてしまっている。辻褄合わせの逃げなのだ。ストレートな映像勝負を避けている。当然、出来なかったのだ。その分、二台目の通過はウィンチを使って丁寧に進めるが、ここでも最後は辻褄合わせのカットバックで逃げる。

フリードキンは絵コンテに頼らない、と自慢げに吠える。この吊り橋シーンのショットすべては頭に入っていてそれを撮ったのだそうだ。何をどう撮りたいのかをスタッフと分かち合わない。その弊害が、殊に先頭車両通過のプロセスに出ている。危地を脱した、と安堵の息を吐き出すのではなく、あれ?これでうまくいっちゃうの?という裏切られた感覚。そう、まさしく、この裏切られた思いを40年前にも私は感じ、それ以降醒めた目でフリードキンを見るようになった。

ちなみにポスターに使われたショットは、第二車両が吊り橋正面のアングルで映っている。車両は橋の半ばで40度傾き、その数メートル手前をガイドとして、四つん這いになって進むアミドゥ。しかし、映画で描かれる第二車両はここまで傾いてはいない。トラックは何回か川に落ちたというから、このショットはNGテイクの一部だろう。

と考えるならば、川に落ちて爆発する第三の車両を設定した方が面白くなったのではないか、などと私は無責任に考える。積荷は車両一台につき三箱を二箱に変えるだけ。登場人物を増やしたくなければ、第二、第三車両は運転手ひとりにして。第三車両が川に落ちて爆発したら運転手だけは助けて第二車両に乗せればいい。



巨木が道を塞いでいるエピソードでも、私は疑問を覚えた。シャイダーがヒステリックにジャングルを切り開こうとする行動がわからない。いや、わかるのだが、破綻している。つまり、言葉を削ることを優先させ、主役であるシャイダーの「寡黙で愚かな演技」の見せ場にしている。

論理的に考えるならば、巨木を見た主人公はどう行動するか。積荷はニトロ。これを使って巨木を爆破できないか、と、観客の大多数が考えるのではないだろうか。観客が考えることは登場人物も考えねばいけない。

しかし、シャイダーには爆破物を取り扱うノウハウがない。相棒にも尋ねる。彼も銃器は得意だが、爆破物は苦手。そういう会話をカラフルに展開させ、演技の見せ場とすべきだろう。言葉が、絶対的に必要な展開なのだ。それを無視して、パニックボタンをヒットしたシャイダーがジャングルを切り開いて迂回路を確保する思考に走る。莫迦か、こいつ、となる。

アミドゥが爆破テロのお尋ね者だと知っていてもいいし、知らなくてもいいが、後続車を待ってチームプレイに走ることになればいい。それで、アミドゥが出した交換条件が、「爆破に成功したら、おれたちが先頭になる」とすればいいのだ。

言葉を削除した結果、爆破に成功した後、いつの間にか、アミドゥ/クレメール組が先頭に立ち、車両パンクで爆死する設定になっている。

そもそも、この巨木爆破シーンの描写が、私には曖昧だった。巨木を爆破した瞬間、絵的には中央に道が開けていなかった。アミドゥとクレメールのリアクションも、喜びではなく、徒労感主体で、私は、そうか、爆破は失敗だったのか、と一瞬思ったほどである。次のシーンではアミドゥ組が走っていたから、成功したということなのか、と理解した程度。

とはいえ、順番が入れ替わったことを観客は知らされていないのだから、爆死に関しても、私はてっきり先頭車両が通過したあと二番手がツキに見放されたのだと思った。40年ぶりの観賞でもそう思った。描写が曖昧だ。曖昧な描写は記憶から削除される。必要な言葉、芝居場をカットしたための不手際だ。



山賊あるいはゲリラと遭遇したあとのシャイダーの単独行は急激に「黄金」のボギーの「単騎狂気に走る」に傾斜する。ニューメキシコ州で撮影された地獄絵と似た「狂気の景観」は「黄金」のボギーの背景にも登場している。

ここにも演出ミスがある。

ボギーの狂気は豊かな言葉と高額の賞金に裏打ちされている。シャイダーの賞金額は底辺の暮らしから脱出できる程度。その賞金で狂気に走るのは器が小さい。仲間の死を経て「成し遂げる」ことへのオブセッションならわかる。しかし、フリードキンはひたすら「黄金」に、ボギーの名演に、舵を切ってシャイダーを小悪党に見せてしまう。

考えてみればフリードキンは、運命に翻弄され生き抜く主人公のキャラクター・アーチを描いたことがない。「フレンチ・コネクション」以下成功作はすべて、主人公は登場した瞬間から確固たる人格を形勢している。実存して動く。「恐怖の報酬」以降も主人公のキャラクター・アーチを描いて成功した作品はない。導火線の短い、つまり成長のプロセスゼロの人物しかさばくことができない。

「黄金」のジョン・ヒューストンはボギー演ずるドブスのキャラクター・アーチを見事に描き切って畏敬する父親ウォルター・ヒューストンの老獪なるオーソリティーと対立させている。



運命に翻弄される登場人物に満ちた「恐怖の報酬」という素材は、キャラクター・アーチを計算できる監督の才気が不可欠だった。「黄金」に近づけたいならば、殊に。ハナから、フリードキンには勝負権がなかった。

タンジェリン・ドリームのスコアの使い方も「エクソシスト」では巧緻だったのが、ここではぶつ切りにされた通俗。フリードキンの音楽センスの悪さを思い知った。こういう風に使われて、タンジェリン・ドリームは失望しなかっただろうか。いや、きっと失望したに違いない。

フリードキンの「恐怖の報酬」は壮大な失敗作だ。「天国の門」にも劣る。なんせあちらにはそこだけショートフィルムとして独立させたい「ローラー・スケート・リンク」というミニ・マスターピースがある。

こういうムダを映画ファンが称えるのは自由だが、現場の力学哲学を知る映画監督が褒めるのはなんとも面映い。言葉が武器のタランティーノが褒めるなんて、マックスに変。

ウィリアム・フリードキンの最高傑作は「フレンチ・コネクション」である。なぜならば、この作品に取り組んだ彼はプリマドンナではなく、狂気の王でもなかった。熱気溢れる雇われ監督としてベストを尽くし、地の利を素直に生かした。分相応の題材だった。主人公のキャラクター・アーチも組み立てる必要がなかった。ジーン・ハックマンが呼吸するだけでジミー・ポパイ・ドイルが息づいていた。


付録。


9月の採点。

「生きているだけで、愛」C 映画はくだらないが趣里がいい。

「ひろしま」B 貴重な映画だが1953年の視点が今は余計に感じられる。

「mcmafia」A この日、4話まで。翌日8話まで。前半の方が面白い。「エデン・レイク」のジェームス・ワトキンスが出世したものだ。ジェームス・ノートンの存在感はいいがキャラ設定にやや難あり。「ゴッドファーザー」を意識し過ぎか。「裁かれしは善人のみ」のアレクセイ・セレブリャコフ、「ジュピターズ・ムーン」のメラーブ・ニニッゼ、チェコのカレン・ロデン、デーヴィッド・ストラザーン、インドの役者などキャストとロケ地がすごい。

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」B+ 懐かしいが面白くない。

「SHADOW影武者」B- 水墨画の映像は美しくアクションもよし。芝居、脚本ダメ。チャン・イーモウはどこまで落ちるのか。

「キナタイ」A- リアルでショッキング。役者がいい。メンドーサは異才。

「バトル・オブ・ライジング」C- マッヅ・ミケルソンだから見た。アルノー・デ・パリエールは最悪の監督。

「モータル・エンジン」B+ お話は宮崎アニメとスター・ウォーズのごった煮だがヴィジュアルはすごい。人の出入りが雑。シュレイクとヘスターのドラマを芯に据えたらよかったのに。ただし、このキャストではダメ。

「チェルノブイリ#1」A+ 見事!

10月の採点。

「恐怖の報酬」C 飽きる。言葉を削った弊害あり。人物が通俗。壮大なムダ。

「チェルノブイリ#2」A+ 見事見事!

「クレイジー・リッチ」B ジェンマ・チャンにぞっこん!

「モーガン」B アーニャ・テイラー・ジョイが心に残る。

「チャーチル/ノルマンディーの決断」B+ ブライアン・コックスのチャーチルが下品。ミランダ・リチャードソン、ジェームス・ピュアフォイが絶品。

「ジョーカー」A 画面に熱と力がある。

「バース・オブ・ア・ネーション」B+ ネイト・パーカーが製作監督脚本主演。欲張り。

「チェルノブイリ#3」A+ 見事見事見事!

「メトロマニラ」A イギリス人ショーン・エリスがフィリピンで撮った泣かせるフィルムノアール。イギリスの若手は異才が多い。

「captive」B+ メンドーサの演出はうまい。でもイサベル・ユペール、大変だったろうなあ。こんな見せ所のないジャングルの人質を何週間も。テロリストの役者たちがうまい。物語がイマイチ。

「キャプテン・マーベル」B+ ブリー、うまい!ジェンマ・チャン、もっと見たかった!

「チェルノブイリ#4」A+ 見事×4。


2019/10/18 (金)

「SORCERER 恐怖の報酬」分析。何が間違っていたのか。その1。


アンリ・G・クルーゾー版の「恐怖の報酬」は、イヴ・モンタン、シャルル・ヴァネル、フォルコ・ルリ、ペーター・ファン・アイク演ずるワル4人それぞれの性格を匂わせる言葉があり、連帯や敵対の源になったと記憶している。(きょうクライテリオン版を注文したから今月中には検証可能)

「SORCERER」を作るにあたってフリードキンが参照にしたジョン・ヒューストンの「黄金」も言葉は豊かだ。こちらのハンフリー・ボガートとウォルター・ヒューストンの関係を参考に、クルーゾーはモンタンとヴァネルの関係を築き上げた感もある。

どちらを見ても、根底はチームプレイであり言葉は豊富だ。そこから言葉を削ったらまったりと退屈になる。

引きこもり型寡黙の主人公が単独で行動する「ドライブ」や「サムライ」とはゲームが違う。そこを理解せず、「SORCERER」を「ドライブ」と同レヴェルで絶賛するレフンは、愚かな青二才だ。

そんな前知識で、「SORCERER」と再び斬り結んだ。



40年前の観賞と大きく違うのは、最初の30分、4人の背景説明のくだりで、私が匙を投げたことだ。退屈なのである。

ブルーノ・クレメール演ずるフランス人投資家のエピソード以外、セリフは極めて簡略化されている。その分、映像が説明的になって、どのエピソードからも、キャラクターが見えて来ない。

順番で言えば、フランシスコ・ラバル演ずる殺し屋のお仕事から幕を明ける。彼の存在もオープニング・エピソードも、記憶には全く残っていなかった。結局、この殺し屋は後々ゲリラと戦う時の「道具」として役に立つだけで何を考えて「基地」となる村に辿り着き、どこへ行こうとしていたのか皆目わからない。一応、マナグアへのトランジットと言うのだが村に滞在してしまう理由が不明なのだ。

4人目に選抜された男(アミドゥ演ずるテロリストの知己)を殺してまで輸送隊に加わる理由も、「殺し屋だから殺した」でフリードキンは済ませている。アミドゥとの葛藤も怒号一発で終わり。人間関係のひりひりのかけらもなく道具、もしくは記号に終始する。従ってキャラクターとして立ち上がることもない。

アミドゥのテロリストのエピソードがドラマ的には一番マシだが、これもキャラクターを匂わせることよりも、「爆薬を扱えるテロリスト」の紹介に終わっている。

パリでのブルーノ・クレメールのエピソードはプロローグにしては長いし情報過多。おまけに人物に惹かれるものがない。スターであるリノ・ヴァンチュラがやればそれなりのウェイトが必要だったかもしれないが、クレメールに格落ちした段階でエピソードごと削るべきだった。この過去は気の利いた会話で語ればよい過去であって律儀に紹介する過去ではない。

クレメールは演技派で「奇襲戦隊」のようなアンサンブルプレイでは存在感を匂わせるが、エピソードを背負って立つとなると、華が無い分、飽きる。こんな男がどんな苦境に陥ろうがWHO CARESの世界なのだ。

ロイ・シャイダーのエピソードも中途半端だ。教会を襲う、という実話からのアイデアに溺れたフリードキンの勇み足としか思えない。シャイダーのキャラも埋没している。復讐を誓うボスのシーンなど実に安っぽい。

導入部の4人の紹介の手際が恐ろしく悪い。このくだりだけで観客の心は離れて大こけに至ったのだと今は確信できる。



ここで疑問がひとつ。「黄金」に魅せられたフリードキンが、その人物紹介のプロセスを何故参考にしなかったのかという点だ。

「黄金」の舞台は1925年のメキシコ。原作はメキシコ在住のドイツ人覆面作家B・トラヴェンが1927年に発表した。製作されたのは1947年。当時としては大々的なメキシコ・ロケが敢行され、バーバンクのワーナー撮影所で室内シーンや夜のシエラマドレ山系のエピソードなどが撮影されている。

導入部はタンピコ。この港町に流れて来たアメリカ人浮浪者ドブス(ハンフリー・ボガート)が先ず紹介され、彼の行動を追いながら若い流れ者カーティン(ティム・ホルト)が登場し、砂金掘りの老人ハワード(ウォルター・ヒューストン)と安宿「黒い熊」で出会う。このトリオが主要メンバーで、一攫千金を夢見てシエラマドレの山岳地帯へ入り込む。4人目のコディ(ブルース・ベネット)は中盤に登場し、束の間の敵対と共闘の後、死んでしまう。

「SORCERER」の人物配置を見る限り、ボギーのようなスターとともに物語世界へ入るフォーミュラがもっとも合理的であったと思う。ボギーと比べると随分貧相だが、当時一応Aランクのスターであったロイ・シャイダーの事件からスタートし、彼が南米に逃亡していくプロセスで二番手のアミドゥなりクレメールと出会い、辿り着いた「基地」の村で、三番手の知恵者がいて、四番手のラバルが最後にグループに参加する、という構成を何故退けたのか。

でなければ、シャイダーとアミドゥのエピソードだけをカットバックさせて彼らが出会うことで「基地」に辿り着き、三番手、四番手が加わるテもあった。

「過去を逃れて」を謳うのはマックスでも二人に絞って後半のジャングル踏破により時間を割くべきだった。現状の構成は「4大スター競演」仕様だ。マックィーンもマストロヤンニもヴァンチュラも出演できないと分かった時点で、プランAは放棄すべきだった。



疑問点は他にもある。先ずは、火災事故を起こした山岳部の油井と「基地」の村との距離感だ。セリフでは200キロ強と入るのだが、映像ではヘリコプターでひとっ飛びの表現になっている。

距離感の確立は、こういうミッションものではとても大事なエレメントなのだがフリードキンは曖昧なまま力で押し切ろうとする。私には撮影時の混乱が絵に出ているとしか思えない。

後々、ラフカットを見たワーナー幹部のひとりが油井への距離がわからないからトラックの走行メーターを追加撮影したらどうか、と切り出したところ、フリードキンは激昂して、オレはインサートの追加撮影などしない、と怒鳴ったそうである。ところが、二週間後、フリードキンは考えを変えて、走行メーターのインサートを撮った。これがメーターの脇に書きなぐられる「218」という数字だ。目的地まで218キロ。トラックが止まってしまったとき、メーター数値との差で、残り何キロをシャイダーがニトロを持って歩かねばならないかわかる。

私に言わせれば、最初に提言された段階で、その利点を見出せなかったフリードキンのプリマドンナぶりが問題だ。エゴに溺れて冷静な判断を瞬時に下せない監督ということになる。ポストプロでこんな具合だったら現場では誰が何を言っても聞き入れなかったのではないか。映画評論家や映画ファンには推し量ることのできない現場の力学というものがある。現場でフリードキンは数々の失敗を犯している。それがこの作品の全篇を覆うディテールの甘さとなって現出したように思う。

暴動の起きる村は「基地」の村のようだが、主要人物が絡むのが夜の葬列だけというのが理解できないし、被害者を運ぶトラックは後に出て来る「吊り橋」を軽く渡って来たことになる。それとも、後々「吊り橋」に行き当たったシャイダーが「道を間違えた」と叫ぶように、「吊り橋」は正規のルートではないということなのか。だとしたら、二台揃って「吊り橋」にチャレンジする意味がわからない。常識的に考えて、道を間違えたと思ったら危険な吊り橋など渡らず引き返すよね。吊り橋越えたら油井に行き着くかどうかもわからないわけだし。ルートがいくつかある、吊り橋ルートは最短だが車では渡れないだろう、というような解説が必要なのだ。エクジステンシャリズムだけでは映画は前に進まない。

シャイダーがトラックに書きつけた「218」の数字も役に立たなくなる。つまり正規のルートで218キロなのだから「道を間違えた」吊り橋ルートはどれだけ迂回したのか、あるいはショートカットだったのか。

いずれにせよ、「基地」の村での時間が長く、主要人物の人となりを学ぶべき会話もないので、前半の1時間はだらだらとした展開で苛立つ。唯一の救いは二台のトラックの意匠。このデザインだけが傑出している。

(その2に続く)


2019/10/17 (木)

WHAT WENT WRONG? その参の下。


“SORCERER”「恐怖の報酬」封切初日。LAタイムス映画評の大見出しが、WHAT WENT WRONG?だった。

先ず映画を楽しみたかった私は、チャールズ・チャンプリンのこの酷評は読まず、映画を先に見た。見終わっての感想が、まさしく、WHAT WENT WRONG?だった。

以来、見直す気にはなれなかった。この大作はハリケーン・ビリーと呼ばれた才気闊達な映画監督がとてつもない無駄遣いをして倒れた「ハリウッドの巨大なエゴの終焉」とも言うべき負の記念碑だった。「天国の門」と同工異曲の負の記念碑だ。フリードキンは、私にとっての「落ちた偶像」になった。

「フレンチ・コネクション」は現代に至るまで何十回も見直して、マスターピースとして盤石の輝きを失っていない。私の生涯ベストテンの一本でもある。映画の神、ハワード・ホークスの口からも、大傑作という言葉を聞いた。(私がホークスにインタヴューしたのは1974年、その2、3年前フリードキンの恋人がホークスの娘キティだった)。「エクソシスト」も、数回見直しているが巧緻なホラーであることは間違いがない。

しかし、「恐怖の報酬」とそれ以降のフリードキン作品は見直すのもおぞましい、と思い、避けて来た。

ところが。



去年の暮れ、「燃えよ剣」の準備で忙殺されている時に「恐怖の報酬」劇場公開の広告を見た。なんで今頃、と首を傾げた。日本では、私がLAで見た「オリジナル版」ではなく「短縮版」が公開されたゆえに、オリジナル版「SORCERER」の初公開が2018年の暮れ、なのだという。初公開から40年ぶりの「オリジナル完全版」をDVD/BLURAY販売するための先行上映だ。フランスから始まった「SORCERER」再評価の動きもあるという。久しぶりに見てみようか、と思ったのは一瞬の気の迷い。私自身のライフワークを目指す「燃えよ剣」への情熱を優先させ、映画史に残る負の記念碑のことは忘れた。

9月になって「燃えよ剣」の編集も一段落し、フリードキン作品のことを思い返した。調べてみると、キング・レコードから立派な装丁の「オリジナル完全版」が発売されている。特典映像も魅力だ。早速、購入した。

先ずは、とても気の利いた「プログラム」に目を通した。40年ぶりのお披露目にこぎついた関係者の心意気に感銘を受けた。ウィリアム・フリードキンのテスタメントの物量も見事。コメントの多さにも目を見張った。愚者は愚者なり、賢者は賢者なりに「SORCERER」を褒め称えている。本来、映画のプログラムはかくあるべきだ、と思う。宣伝プロデューサーの情熱が脈打っている。



そして、特典映像のフリードキンとニコラス・ウィンディング・レフンの対談を見た。これは面白かった。彼らの喋る内容には同意できなくとも、若い頃のフリードキンを気取るレフンの、「未来の自分」としてのフリードキンへの迫り方が単なる対談、あるいはインタヴュー取材の範疇を超えた映画作家のエゴむき出しのショーになっている。

レフンは「恐怖の報酬」をマスターピースと褒め称え、それがキャリア失速の引き金になった時点のフリードキンの本音に迫ろうとする。ついでに、自作の「ドライブ」も「オンリー・ゴッド」もマスターピースだと「のろける」。さすがにフリードキンは、そんな若造のエゴをたしなめる。「恐怖の報酬」はマスターピースだが、君の作品はまだそれだけの年輪を経ていない、と。司馬遼太郎風に言うなら、歴史が生乾きの時点ではマスターピースか否かの判断は時期尚早である、というわけだ。

私は、この時点で、レフンは「プッシャー・トリロジー」以上の作品を作ることはできないだろう、と予測する。「ドライブ」は寡黙な主人公が生きたフィルム・ノアールの一本で、よく出来た作品だが、マスターピースには程遠い。「オンリー・ゴッド」は愚作。こういうレフンの愚かさ、勇み足も含めて、この90分の対談勝負は面白かった。

そして、レフンは「SORCERER」のセリフの少なさを激賞する。ここに、私は引っかかる。



「ドライブ」はライアン・ゴスリング演ずる寡黙な主人公が「サムライ」のアラン・ドロンのレヴェルに達して効果的だが、はたして「恐怖の報酬」はそうであったか。

寡黙な主人公の魅力はその役を生き抜く役者のセックスアッピールと共存している。ライアンも、ドロンも、高倉の健さんも。「恐怖の報酬」のロイ・シャイダーにそれがあったか?

40年前の記憶は朧の森に朽ちている。「フレンチ・コネクション」や「ジョーズ」ならば、何度も見直している。何度見ても、シャイダーのニュアンスの芝居に心を動かされる。しかし、「恐怖の報酬」では肉体の極限演技ご苦労さんというだけだったような気がしている・・・。

「バリー・リンドン」のライアン・オニールのように、数十年の時を経て見返し「見事!」と拍手する存在感もある。ひょっとすると、シャイダーもそうなるかも、と思ってもみるのだが・・・。



セリフの少なさに関して、プログラムで興味深い一文がある。おそらくフリードキンの回顧録から引用したものだろう。

「恐怖の報酬」は、南米の山岳地帯の油井で起きた大火災を消火するための爆薬ニトログリセリンを四人の男が二台のトラックで、ジャングルの難路を運ぶ話だ。大きな振動が加わるとニトログリセリンは爆発する、というのが「恐怖」のポイント。後半1時間の舞台がジャングルとなる。

ジャングル戦を描いた大傑作といえば、デーヴィッド・リーンの「戦場にかける橋」だ。で、脚本段階で行き詰まっていたフリードキンは、わざわざイギリスまで飛んで、リーンに教えを仰いだという。そこで得た巨匠のありがたいお言葉が、「もしもう一度『戦場にかける橋』を作れと言われたら、セリフの三分の一を削るだろう」。これで吹っ切れたフリードキンは、脚本のウォロン・グリーンと共同でセリフをとことん削っていった、というのだが・・・。

私はそこに、猪突猛進に出世街道を爆走するハリケーン・ビリーの弱点を感ずる。行間を読む柔軟性がないのだ。



デーヴィッド・リーンは1908年生まれ。フリードキンが会ったのが1976年だとしたら、68才。1970年の「ライアンの娘」の失敗で、次回作に予定していた「戦艦バウンティ」が頓挫しつつある頃だ。リーンはそのあと1984年に愚作「インドへの道」を撮って監督キャリアに終止符を打った。

何を言いたいかというと、下り坂の巨匠はとてつもなくシニカルになる、ということだ。リーンの「冷酷さ」に関しては数々の伝説がある。自分の企画はなかなか通らない、しかし、ハリウッドからやって来た若造はどんな企画でも通すことができる。そこに嫉妬が生まれなくとも、懇切丁寧に後輩の悩みを聞いて助言したとは思えない。

「戦場にかける橋」のセリフを三分の一削る、というのは、私に言わせれば、老巨匠の戯言だ。「戦場にかける橋」はセリフを削って成立する映画ではない。要は、自分で脚本をコントロールできたかどうかのエゴの問題だ。「戦場にかける橋」の時はプロデューサーのサム・スピーゲルの力が強大で、スピーゲルの「愛人」も主要なキャストで使わざるを得なかった。この役を削るという意味を含んだ「三分の一を削る」という言い方だったかもしれない。

あるいは、後輩つぶしに高度のテクニックを発揮した最強読売巨人軍のキャッチャー森祇晶の「アドヴァイス」戦略だ。



世の中には、映画は映像で語り、セリフは少ない程よい、という妙な信仰が根強く残っている。サイレント期の表現主義の悪しき継承だ。ヒッチコックはサイレント映画から出て来た人だからそういう信条を持ち続けていたのもわかる。が、セリフ軽視のこういった姿勢が彼の晩年の諸作の足を引っ張っているのも事実だ。セリフの代わりに映像でむき出しの説明をするようになったのだ。要は、セリフでも映像でも「むき出しの解説」は下の下ということなのだ。題材によってセリフにウェイトを置く映画もあれば、そうではないものもある。

フリードキン/レフンを読みながら、私は少しだけ、「恐怖の報酬」の欠点を思い出した。セリフが少なく、4人の主要キャラクターが人形のように寡黙であったことだ。会話によって生まれる連帯感に乏しかった。アクションによって生まれる登場人物のケミストリーを補強するべき言葉がなかった・・・。

次回は「恐怖の報酬」40年ぶりの分析。


2019/10/16 (水)

WHAT WENT WRONG? その参の上。

罪の轍とワンスアポンアタイムインハリウッドと恐怖の報酬。

警察小説の迫力×サスペンス小説の緊迫×群像劇の共感×刑事たちの執念×容疑者の孤独×これぞ犯罪ミステリの最高峰、というオビに惹かれ、奥田英朗の「罪の轍」を読んだ。吉展ちゃん事件を「飢餓海峡」風にアレンジした労作ではあるが、迫力も緊迫も共感も執念も孤独も読み取れず、ひたすら疲れ不快感しか残らなかった。

ページを割いたにしては礼文島のオープニングが退屈。前半と後半で「追われるもの」宇野寛治のキャラが分裂しているし、それを補うべき「追う刑事たち」に魅力がない。あのようなクライマックスに向かうなら寛治の、父への憎悪の秒読みを前半から匂わせるべきではなかったか。そういう不手際への答えが「寛治は莫迦だから」では、小説自体が「バカバカしい」ということになる。陰惨な事件は「ワル」の造形に失敗すると不快感しか生み出さない。



同じ頃、クウェンティン・タランティーノの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」を見た。カンヌ映画祭の上映で、タランティーノが異例の、結末に関する「箝口令」を発布したと聞いて、この展開はほぼ予想できた。なにしろ「イングロリアス・バスターズ」でヒトラーを殺してしまったタランティーノである。なんでもありだろう。

なつかしさが随所に散りばめられて、それなりに作品を愉しむことができた。私が、初めてハリウッドに行ったのも1969年だったし、73年にLAライフを始めてからはヴィレッジの映画館は聖地であった。

ムッソ&フランクスやエル・コヨーテは打ち合わせを兼ねて何度も足を運んだ。50年代から60年代にかけてのTVウェスタンは、私の遊び場だった。

私がもっとも入れ込んだのは「コルト45」のウェイド・プレストンだった。1959年から60年にかけて、プレストンはクリストファー・コルトを演じ、ワーナー・ブラザースのタイクーン、ジャックの逆鱗に触れ、ハリウッドを去ってスパゲティ(マカロニ)ウェスタンに活路を見出した。

が、クリント・イーストウッドのような栄光とは縁遠いまま、ひっそりとハリウッドに戻ってスタントマンで余生を過ごした。と書くと、レオ様とブラピーのキャラを足してひとつにした感がなきにしもあらず。しかし、タランティーノがプレストンを愛したとは思えない。「ランサー」のジム・ステイシーを登場させたのは、彼がこのあとバイク事故を起こし、片腕片足を失う悲劇に見舞われたからだろう。



映画を見終わって、なつかしさが虚しさに取って変わられた。シャロン・テイトを演じているマーゴット・ロビーが生き延びても、シャロン・テイト惨殺事件は心に沈殿して濾過されることはない。そういう世代に、私は属している。だから、マーゴットが本物のシャロンをスクリーン上の「サイレンサー破壊部隊」で「我が事のように」眺めるとき、それがシャロンのオマージュであるよりは、タランティーノの「悪趣味」に思えてしまうのだ。

レオ様の吃音を全く無視した字幕にも違和感は残った。

もうひとつ、些細なことだが、1969年のLAエリア再現で無視され、気になったことが一点ある。無視、というよりはタランティーノの記憶には残っていないということなのだろう。それは、サンセット大通りの砂埃だ。

ヴィレッジの北、UCLAキャンパス脇を通るサンセット大通りは、基本的に舗装はされていたが、UCLAからTVドラマで高名なサンセット77番地に至るかなりの区間で、今程に建物がなく道路脇の赤土が目立った。だから、駐車している車やUターンする車が撒き散らす土煙が強く記憶に残っている。その「未開」の味わいがベルエアの入口にあった。



「恐怖の報酬」は1977年LAのウェストウッド・ヴィレッジで見た。映画館は「ワンスアポン」には出て来ないナショナルだ。私はこの劇場で「エクソシスト」の初日に立ち会った。満席の夜の回。映画に感銘し、恐怖に戦き、サンタモニカのアパートまで1時間かけて歩いて帰った記憶がある。少しでも夜、ひとりで眠る時間を短くしたかったのだ。中古の自家用車は修理中で、出かけるときはバスだったと思う。とにかく、「フレンチ・コネクション」にロンドンで遭遇して以来、ウィリアム・フリードキンの大ファンとなって、1972年に半年間語学留学していたロンドンでは、彼の旧作を探しまくったものだ。

“SORCERER”こと「恐怖の報酬」は、アンリ・ジョルジュ・クルーゾーの旧作(英語タイトルは”WAGES OF FEAR”)を見ていたが、そのリメークではないことぐらい、ハードコアなフリードキン・ファンは知っていた。当時、公開中の「スター・ウォーズ」が大ヒットしていたにも関わらず、「恐怖の報酬」公開のため、ハリウッドのグローマンズ(当時はマンズ)・チャイニーズ・シアターを契約上明け渡さねばならないということで話題にもなった。と、書いて、私の記憶も曖昧になった。「エクソシスト」を見たのは初日のナショナルだったが「恐怖の報酬」を見たのは初日のチャイニーズ・シアターだったかもしれない。いずれにせよ、「恐怖の報酬」は大コケとなり、5週後、「スター・ウォーズ」はチャイニーズ・シアターに戻って来た。

フリードキンの新作映画の感想は、役者の肉体が酷使されただけの壮大なる徒労、だった。愕然となったというよりは、ひどく惨めな気分になった。以後、フリードキン作品は殆どすべて、私にとっては駄作愚作となっていった。数少ない例外は1985年の「LA大捜査線/狼たちの街」ぐらいか。この作品にしても、フリードキンのシニカルなキャスティングが足を引っ張って興行的には不発だった。(以下、参の下に続く)


2019/10/10 (木)

WHAT WENT WRONG? その弐。


やはり、ドジャースがお題目となったか。嗚呼。

9/9のブログで予想した通り、ドジャースはNLDSのGAME5でナショナルズに屈した。戦犯第一位はクレイトン・カーショーだ。以前予想した通り、ドジャースはカーショーがいる限りワールドシリーズ制覇を遂げることはない。彼は銀河系最高のエースであってもそれはレギュラーシーズンに限定される。このG5を見る限り、彼は早期引退を考えた方がいい。

戦犯第二位はハウィー・ケンドリックに満塁弾を打たれたジョー・ケリーではなく、ケリーを9回から続けて登板させたデイヴ・ロバーツの、明々白々の采配ミスだ。

ホームゲームで、延長戦に入って、クローザーを温存しておくバカ監督がどこにいるのか。それほどケリーを信頼して、クローザーのケンリー・ジャンセンに不信感を抱いているというのか。ケリーは前回の登板でワンアウトも取れない惨憺たるデキだった。それを、たまたま下位打線相手に3アウトを取ったからと、次の回まで引っ張るか?



ドジャースが3対1でリードした7回、2死1、2塁でカーショーを投入したときも、ロバーツの采配には疑問が残った。先発ビューラーは絶好調ではなかった。薄氷の思いで6回を3対1で投げ切っている。下位打線から始まる7回はそもそもマエダが投げるべきイニングではなかったか。マエダは、8回にカーショーがバック・トゥ・バック・ホームランを食らってから登板し、5、6、7番バッターを三振に取っている。このシリーズのマエダは無敵なのだ。7回をマエダが投げていれば、6、7、8番を三者凡退にしていただろう。

そうすれば、カーショーを8回に登板させて、9、1、2番と対戦させ、もし3番の打点王アンソニー・レンドーンまで廻っても、4番のフアン・ソトには左のスペシャリスト、コレアックを使うことができた。そして9回をジャンセンに委せればよかった。

7回までビューラーを続投させたために、いきなり先頭打者を死球で出塁させ、2死1、2塁のピンチを招いている。ここでリリーフ登板したカーショーは2番のイートンを三球三振に取ったが、8回にレンドーン、ソトに連続ホームランを献上し、3対3の同点にしてマウンドを降りている。



ここでもロバーツはミスを犯したことになる。つまり、試合終盤で連続してソトを討ち取っていたコレアックを投入せず、カーショーをソトに対戦させたことだ。1点でもリードして9回のジャンセンに繋ぐ、という大命題を忘れてしまったのだ。

9回を三者凡退で凌いだケリーは、なぜか、ロバーツの絶大の信頼を得て、10回のマウンドに上がり、先頭打者の2番イートンを歩かせ、3番のレンドーンにフェンス直撃の二塁打を打たれた。ここで当然降板と思いきや、ロバーツはケリーを続投させた。つまり4番の左打者ソトを歩かせ、無死満塁として5番のケンドリックと勝負させたのだ。左のスペシャリスト、コレアックを使わずに、である。満塁策を取るならソトをコレアックが討ち取った後だろう。常識的に考えて、ワンポイントのコレアックをソトにぶつけ、後をジャンセンに委せるべきだった。

この日のケンドリックは、実は、ナショナルズの負の象徴だった。守備ではシリーズ通算三つ目となるエラーがあった。この失策で生きたベリンジャーが盗塁して無死二塁のチャンスを作ったが、ドジャースは生かせなかった。致命的な走塁ミスもあった。汚名返上の最後のアットバットで、ケンドリックは渾身の満塁ホームランを放ったことになる。実は、ビューラー相手の打席でもケンドリックはセンター深くへ大飛球を放っている。これはベリンジャーの超ファインプレイでアウトになっていた。

いずれにせよ、7回以降のロバーツ采配はデザスター以外のなにものでもない。



ロバーツは確実にジャンセンの信頼を失った。フロントオフィスの信頼も失った、と言いたいところだが、戦犯の第三位がケリーとするなら第四位が、そのケリーとAJポロック2選手を補強の目玉として獲得した球団社長のフリードマンなのだ。ポロックはこのシリーズで13打数0安打の11三振。無残な助っ人だった。

我がコディ・ベリンジャーの不振も大きかった。19打数4安打。7三振。ホームラン0、打点0。シーズンMVPを争っていたレンドーンには大きな差をつけられた。MVPはレンドーンが取るべきだ。

ドジャースはシーズン最多の106勝をあげてディヴィジョン・シリーズで敗退するMLB史上初のチームとなった。5試合での三振数も新記録を塗り替えたのではないか。

WHAT WENT WRONG?

答えは簡単。カーク・ギブソンとオーレル・ハーシャイザーがいなかったから。
チームリーダーはいても、勝負師がいないのだ。

このチームはドジャース史上最強ではない。カーショーのこれまでの貢献度は認めても、彼が先発三本柱にいる限り、ドジャースは頂点に立てない。カーショーは負の勝負師の象徴となってしまった。



ジェイムス・クラムリーの「ファイナル・カントリー」も読み終えた。再読のつもりで読み始めたが、記憶に残るシーンは皆無だった。多分、出版当時に英語版を買って2、3ページ読んでそのままになってしまったのだろう。

今度はナナメヨミをしなかったが、寄り道だらけのプロットで筋がちんぷんかんぷんだった。なんでミロが、黒人の大男イーノスにこだわり続けるのかまるでわからなかった。いくらシルヴィ・ローマックスに捜索を依頼されたとはいえ、である。見つけても依頼人に報告するつもりはないのだから趣味の探偵ごっこでしかない。説得して、モンタナの隠れ家からテキサスへ連れ戻そうとするミロの心理がまったく読めない。無暴無策で殴られるためだけにイーノスと接触するミロは単なるアル中のアホ爺に見える。

しかもその無暴無策ゆえに、「人生最後のピュアな愛のようなもの」まで失うのだから愚かだ。チャンドラーが作り上げたムース・マロイの細胞がイーノス7、ミロ3の割合でブレンドされているようだが、ふたりの対決の「悲劇性」にはバカバカしさしか感じなかった。

親の遺産を受け継いでリッチになった60才のミロもつまらない。やたらと人を使って、面倒くさい仕事の半分は他人まかせというのは探偵小説のルール違反といっていい。第一ヒロインのベティは不愉快なだけで、第二ヒロインのモリーがその分魅力を発揮するが、再登場が何万光年も遅過ぎる。

関係者一同を集めてのクライマックスの謎解きが謎解きにならず、ドタバタの殺し合いになっている。クラムリーは、世界を呪って老化していったのだろう。私は70才になってクラムリーの呪縛から逃れることができた。

さらば愛しきOLD DICK JUNKIE…


 a-Nikki 1.02