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2009/06/25 (木) 家族のシステムから外れて。
■手許に2冊、厳密に言うと3冊の本がある。同日に届いた。一方は日本でおよそ百万人が読書しているかしたかこれからするかという本。一方は日本でせいぜい五人、ひょっとしたらぼくひとりしか読もうとしていない本。
前者は「1Q84」のBOOK1&2。説明の必要はないほど、今、ニッポンで一番売れている小説だ。後者は"I COULD BE ANYONE"。ケンブリッジ大学の学者の家に生まれ、同大学を卒業して役者となったマシュー・スカーフィールドの自伝風エッセイだ。
マシューは(と敢えてファースト・ネームで呼ばせてもらう)ぼくと同世代である。日本にも来て公演および演劇のワークショップをやったことがあるから面識のある人がいるかもしれない。面識あれば、その彼が書いた処女出版の書ということで興味を持ち、アマゾンで購入した人もいるであろう。ゆえに、「せいぜい五人」というのもありうる。
ぼくはマシューとは面識がない。英国産のTVドラマで客演したのを見て、その立派な顔立ちと繊細な演技に惹かれ、記憶しただけだ。1996年に「栄光と狂気」を作ったとき、コーチのハリー・パーカー役でカナダに招こうと頑張ったこともある。キャスティング担当が非協力的で、連絡先不明で処理され、結局、コーチ役にはカナダ人のケネス・ウェルシュを使った。これは、ぼくの監督人生でももっとも悔やまれる妥協の配役のひとつだ。
来年、イギリス人が主要登場人物となる映画を撮るかもしれない。イメージしたのはマシューである。年齢も経歴もぴったりだ。それで、近頃、どのように過ごしているのかと思ってヤフーで検索した。映像面では際立った活動はしていなかったが、演劇面でいくつかのサイトに名前があった。そのひとつに、去年暮れ作家デビューしたという記述があった。"I COULD BE ANYONE"である。
タイトルは「波止場」の有名なコンテンダー・シーンのセリフ、"I could've been somebody."と呼応する。序文はクロサワの「羅生門」から始めている。マシューはいい映画に出たいと渇望している。
ぱらぱらっとめくっただけでいい本だということがわかる。60年代の英国式反逆の生き方を中心に書いてあるようだ。時間をかけて丁寧に読もうと決めた。そして、おそらく来年こそは一緒に仕事をしようとも決めた。
マシューは本来ならマイケル・ホーダーンやデンホルム・エリオットがいた位置にいてもおかしくない。今で言えば、マイケル・ギャンボンに近いところにいなければならない。ホーダーンやエリオットの愛嬌には欠けるが、哲人の風貌はある。このような知性派のシェークスピア役者が売れていないというのはなんとも理解不可能な話である。ケンブリッジ・スカラーという家族のシステムから外れて役者になったのに未だ一流とは言えない。それで、文筆業に進出した。
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村上春樹の新作は家族のシステムから外れた若者が社会のシステムからも世界の秩序からも外れ愛を求める作品である。
上下巻ではなく、BOOK1&2が2009年5月末に発売された。要は、BOOK4あるいはBOOK8で完結するであろう物語の1と2である。
一言で言うならば、「海辺のカフカ」には遠く及ばない。
完結すれば及ぶのかというとそうは思えない。青豆と天吾にはエピックを背負うだけの貫禄がない。すべての登場人物がルースエンドに終わって、その後を読み続けたいという気にもならない。これは村上春樹工房の問題点なのではないだろうか。
とにかくBOOK1の250ページまでは単純に「村上春樹はどうしてしまったんだろう」の話術であった。青豆の男アサリなど正直、稚拙な会話の連続である。しかしながら、250ページを過ぎたあたりからようやく物語が動き始め、空気人形のようなふかえりにも血肉を感じ始めた。が、BOOK2の後半に進むにしたがって、青豆の意識のたががどんどん緩んで来た。
環と青豆の関係はわかる。が、レイプされた環の無念を青豆が償ったあの暴力行為に対する環の反応が描かれていないのは読んでいてあれ?と思い、その環がやっぱり非業の死を遂げて、青豆にできる精一杯の償いをやって、その延長で必殺仕事人風ミッションをこなし、三人を「あちらに送った」というのは納得できた。
つまり、1Q84年に踏み込んだ青豆の最初の仕事が3人目の「送り出し」であったと理解するし、そのエージェントたるおばばさまとの関係も良好で、少なくとも小説に描かれたプロットを追う限り、このチームは世界の秩序の中心に居座り世界を女や子供にとって居心地の悪いものにしている連中を次々と始末していくのであろうと解釈していたのだが、物語の核心となる第四の殺人を依頼された途端、青豆はこれを最後のミッションであると(つまり、おばばさまが諸事情をかんがみて、これ以降仕事を続けるのは無理であろうと言い出す前に)規定してしまうのだ。
新たな友人の理不尽な死に対して「死んだものは生き返らない」などと普通の女の子風に達観するくだりもある。現役の、現在進行形の不条理処理人が、行動原理にある高貴なる報復のギアで生き続けながらいつの間にか、「死んだものは生き返らない」の無力感に移行している。その移行のプロセスが欠落している。
■ もっと不思議なのはホテル・オークラ・スイートのセットアップである。リーダーとの会話の内容はいい。しかし、ボディガードが屈強だがプロではないという理由で簡単に銃器も武器も持って入り込めたというのは手数が足りぬ。あまりにお粗末ではないか。何週間も待って治療に行く初回に殺せというおばばさまもプロではない。これはせめて二度のセッションに分けて、書き込むくだりではないのか。
ああいった筋肉治療の成果を目にすれば、どんな有能な防御システムも、二度目に訪れた青豆へのボディチェックは遠慮するだろう。なにしろ神を治療するマジックハンドの持ち主だ。二度目だったら武器でも楽器でもなんでも持ち込むことはできる。
まるで各章を異なる村上春樹クローンが書いて、つなげたような印象を受ける。デキのいい村上春樹もいればデキの悪い村上春樹もいる。
青豆と天吾の運命がクロスするかしないかのくだりは、ひょっとしてこの人は「君の名は」をやりたかったなどとも考えつつ、ビリー・ザ・キッドの暗殺に赴くパット・ギャレットが抱えていた胸のときめきにすら及ばなかった。
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