2020/10/20 (火)

「シカゴ7はいかにして異端の鳥を焼き鳥にしたか」論の続き。


「異端の鳥」は第二次大戦下の東欧に於けるユダヤ系少年の地獄めぐりの物語だ。生き延びるために七つの大罪を目撃し、時には自ら罪を冒した少年の話でもある。

チェコのヴァーツラフ・マルホウルが脚本を書き監督した映画版では、原作の流れに(おそらく)従って、ソドマイズも獣姦も(直接描写ではないが)描かれる。一般的に不快な、戦時だからこその悲惨な光景が連打される。

ヴェニス映画祭のコンペでは退場者が続出し、センセーショナルな話題を呼んだが無冠に終わった。アカデミー外国語映画部門ではチェコ代表としてショート・リストの9本には選ばれたが、ノミネーションでは落ちた。



私は、かつてポランスキー少年の戦禍の彷徨を読み、心をゆさぶられたことがある。ホロコーストを生き抜く物語には惹かれてしまうのだ。それは、幼い時にわけもわからず見たジッロ・ポンテコルボの「ゼロ地帯」の衝撃に端を発し、以来途切れることはない。

「異端の鳥」はチェコ映画であるにも関わらず、ハーヴェイ・カイテル、ジュリアン・サンズ、ウド・キア、ステラン・スカルスガルド、バリー・ペッパーといった欧米の著名俳優たちが出演していることにも興味があった。それは、「ゼロ地帯」にアメリカの女優スーザン・ストラスバーグが主演していたことともリンクする。

ネットで見た予告編のモノクロ映像の素晴らしさにもそそられ、随分前から心待ちにしていた映画なのだった。

描写に関して、不快感はなかった。例えば、嫉妬の罪を描く、両目を抉り穫るくだりはバカバカしさが先行した。粉屋を演ずるウド・キアのどちらかといえば貧相な肉体が若い使用人につかみかかることに無理があった。寓話の世界をリアルにしようとする演出の不備を感じただけだ。



総じて、「ショッキング」といわれるエピソードのすべてが古臭かった。クリシェーに堕しているとも思った。1965年に出版された当時は「タブーを破って斬新」であったものが、半世紀を経て「どこかで見た(あるいは聞いた)光景」になっているのだ。

要は、各エピソードに於ける人間の業が、今も通用する深遠なるものを備えているかどうかの問題だ。その意味で、マルホウルの映画には正邪どちらの領域でも際だって魅力的な登場人物が登場しない。

カイテル演ずる司祭はジョークでしかなかったし、ジュリアンの幼児愛好癖も「通俗」でしかなかった。その罰し方も当然そうなるだろうと予測した通りに粛々と進んで意外性はなかった。

ステランは一日仕事をそれなりにこなしているだけで、ペッパーのロシアン・スナイパーは「プライヴェート・ライアン」に短絡した。年季を経たペッパーの表情には見惚れたが、やっと口を開いたときの一言「目には目を、歯には歯を」は無秩序に使い古された訓示だったし、彼が村人を殺戮する展開も稚拙だった。

突然、ロシア兵士三人が血だらけで道に転がっている光景が描かれ、集まった兵士たちは将校から「だから村には近づくなと言ったやんけ」的な警告を投げつけられるだけ。映画は、何が起こったのか語らぬまま、ペッパー演ずる狙撃兵は翌朝村人を三人処刑狙撃するのだ。



こういったキャメオの俳優たちはほぼ全員、セリフが吹替えられてエピソード自体もつくりものめいている。チェコの俳優は舞台の大袈裟なセリフ廻しでこれもまたカビのはえた演技だ。しかも、セリフの絶対数が少ないから会話の妙味はゼロに近い。

最大の問題点は脚本だ。言葉を極端に削ぎ落としているために意味不明な流れが次々出て来る。演出的な省略も、理不尽なところが多々ある。

例えば導入部。林の中を子犬と思しき小動物を抱えて逃げる主人公。追いかけ小動物を奪って火を放つ少年たち。この少年たちは後になってみると近隣の村の子供たちらしいのだが、下卑た意味での「衝撃のオープニング」を提出した以外、なんの状況説明もない。暴力行為自体が小動物への悪意なのか少年への悪意なのかもわからない。

主人公は焼けこげた小動物の遺骸を持って、荒れ野の一軒家に戻ると、そこにいた(多分マルタという名の)初老の女が一言、一人歩きをするな、というだけで、一件落着してしまう。上記したロシア軍将校の警告とまったく同じ「無意味な解説」だ。



マルタと思しき初老の女と主役少年の関係もわからない。ユダヤ人迫害から息子を守るために、両親が少年を田舎に疎開させたのだろうが、そんな事情は映像を追うだけでは伝わって来ない。

導入部の暴力少年たちは、終盤出て来る孤児院の少年たちと同質の不可解さがある。両者の違いは、主人公に怖れを抱くか否かであって、それぞれの行為の動機は不明だ。要するに主人公の「ふてぶてしき成長度のバロメーター」として登場させているだけ。ゆえに、ここでも人間の業は忘れ去られ、リアリティ欠如の記号という寓話が広がってしまう。



戦禍に於ける少年のオデッセーといえば、「ブリキの太鼓」や「炎628」が思い浮かぶ。それらの作品と比べて「異端の鳥」が著しく見劣りするのは文学性の欠如もそうだが主人公のキャスティングもおおいに関係している。

マルホウルは、街で見かけたペトル・コトラール少年を主役に抜擢したという。以前、このブログでも触れた1985年度作品「炎628」では、ロシアの映像作家エレム・クリモフが、ズブのシロウトのアレクセイ・クラフチェンコ少年を主役に抜擢し9ヶ月に及ぶ撮影での「成長」を記録した。

その故事にあやかりたかったのはわかる。中年になったアレクセイを、バリー・ペッパー登場の先触れとなるロシア軍兵士役でキャスティングしているからだ。

しかし、ペトルは残念ながら、アレクセイにはならなかった。2人のポエティックな2ショットを撮影することはできても、「炎628」の成果をマルホウルは継承していない。



後半のペトルは、言葉を失った少年ではなく、口をつぐんでいるだけの少年だ。本人の資質、演出の気概、すべてに生の硬さがある。地獄めぐりにおける変貌などかけらも表現できていない。

述べて来たように、エピソード自体に説得力がないから地獄の光景もソフトでたるい。コサック兵による村民虐殺とドイツ軍との戦いは「マグニフィセント・セヴン」の育ちの悪い従兄弟のようで気恥ずかしく唐突でもあった。

マルホウルは状況説明を極端に省くスタイルに固執した。映画は映像で語るべしという旧態依然の表現主義が粗雑で、作品の文学性をとことん破壊している。



映画の文学性、あるいは映像に於けるLITERAL MINDは監督が握る言葉と映像のブレンドから生まれる。「異端の鳥」の場合はコシンスキの言葉=地の文が確実に排除されている。私の好みのブレンドは言葉6、映像4ということになろうか。その境界線にあるスイッチを、虚実皮膜のライン上で、左右に揺れながら押せばLITERAL MINDはマックスに機能する。



「異端の鳥」を中にはさんで見たリミテッド・シリーズ「ある家族の肖像 I KNOW THIS MUCH IS TRUE」はウォリー・ラムの原作小説をデレク・シアンフランスが脚色し監督した。障害をもって生まれた双子の兄を抱えた弟の40数年に及ぶ「苦行」を描く。兄トーマスと弟ドミニックを、マーク・ラファロが演じている。

ここには言葉6映像4のブレンドがきっちりとおさまっている。最初の2時間、エピソード1と2はほぼ完璧で、私は何度か、涙ぐんだ。ドミニックの語りによる過ぎ去りし日々のエピソードも、巧緻に組み込まれている。脇にも芸達者が揃っている。中でもロージー・オドンネルが素晴らしい。

デレク・シアンフランスは2010年の「ブルーバレンタイン」にしても2012年の「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命」にしても、主人公に十字架を背負わせその負荷を執拗に描くことで作家性を誇示する傾向がある。私はあまり買っていない。だから、近作の「光をくれた人」は予告編を見て、重荷をかったるく感じ、パスをした。

このリミテッド・シリーズを見る気になったのは、そろそろ名作を放つ頃合いだと思ったからだ。冒頭の二話は間違いなく、Aランクの仕事だった。CGを駆使し、手間ヒマかけて撮ったマーク・ラファロ対マーク・ラファロの芝居に心を揺さぶられた。



話が3話に至るころから、マーク・ラファロのぼやき顔が苦痛に思えて来た。こういうこともあった、あんなこともあったと過去の「苦悩」を並べ立てるドミニックのキャラそのものにも、拒否反応が芽生えた。

出生の謎は、途中で、AでなければBだろう程度の予定調和が見え始め、なんの驚愕もないまま、6時間引っ張られる。大学時代のエピソードも、「ドッグマン」ことマルチェロ・フォンテが演ずる「呪われたおじいちゃん」の回顧録も設定自体が幼稚で余計だった。

しかし、なによりも、時間をかけた割には、ドミニックとトーマスの人生の決着のつけ方が、あまりにズサンで、混乱していた。

「滝」で消息を断った双子の片割れの運命に寄り添うトーマスの心情を、何も感じていない風なドミニックがあまりに愚かだ。

つまり、2時間半でまとまる話を6時間強に引き延ばした挙げ句、肝腎のツメも誤ったシアンフランスのヘタな一手だけが心に残る終章だった。



演技のギアチェンジということでいえば、「異端の鳥」のペトルは低速ローでぎしぎし言いながら走り続けている。「ある家族の肖像」のラファロは高速ドライヴで飛ばしに飛ばす。どちらにも映画の巧緻な文学性はない。

数段階のギアチェンジに長けて映画の巧緻な文学性をマックスで活写したのが「シカゴ7裁判」だ。この2020年度の最高傑作に関しては、日を改めて書き綴りたい。



追記。「異端の鳥」は少年の役名を敢えて排除して論じた。この作品を見る人は、少年の役名を知らないまま見ることをおすすめする。そうすれば、最後に少しだけ、映画の心地よさを感ずることができる。


2020/10/19 (月)

THANK GOD IT’S THE BELLINGER TIME!


シカゴ7よりもLCSのGAME7の伝説を語りたい。

それは、ムーキーのTHE CATCHあり、ベリのTHE BLASTあり、ウーリアスのTHE SHUTOUTありの激情型で劇場型のアップス&ダウンズに満ちた2020年度最高のゲームだった。



ロバーツ采配はオープナーで送り込んだダスティン・メイが大誤算。さらに二番手ゴンソリンもピリッとせず2回を終わって0対2のビハインドだった。

3回裏に、GAME5でブレーヴスのウィル・スミスから3ラン・ホーマーを打ったドジャースのベイビーフェイス・ウィル・スミスが2点タイムリーで同点に追いついたものの、4回表にはゴンソリンがさらなる醜態をさらし、3点目を献上。無死2塁3塁で三番手のトライネンに変わった。

この時点で、私は、ドジャースの敗退を覚悟したのだが、ブレーヴス・ファンにとっては驚天動地の走塁ミスで走者ふたりが変則ダブルプレイの犠牲になった。

左打者のマーケイキスが放った鋭い三塁ゴロで、三塁ランナーのスワンソンが飛び出し、三塁と本塁の間にはさまれタッチアウト。二塁ランナーのライリーはタイミングを誤って三塁に走り、これもアウト。ブレーヴスは大量点のチャンスを失った。

そこで試合のモーメンタムはドジャースに傾き、ムーキーのスーパーキャッチが生まれ、7回裏、ベリンジャーに4度目の打席が廻って来た。



ここまでベリは第一打席でライトへの強烈な当たりが出たもののアウトに終わり、続く2打席はフォア・ボール。

マウンドにいるのは右のクリス・マーティン。日本ハムで2年間投げた身長2メートル強の豪腕投手だ。本来なら前の回でターナーを斬って採り、お役御免の筈だったが、ブレーヴスのスニッカー監督は回をまたいで続投させた。

4番左打者のマンシー、5番右打者のスミスを三振にとったマーティンを、スニッカーはベリにもぶつけた。この時点で、ブレーヴスのブルペンで肩が出来ていたのは左のウィル・スミスのみ。投手交代となるとその回が続く場合、最低三人の打者と対戦するのが2020年のルール。7回のアタマから左腕スミスを投入すると、相性の悪いドジャースのウィル・スミスと対戦せざるをえない。打ち込まれる可能性も高い。そこで、本来は6回裏のターナー対策であった筈のマーティンをスミスまで引っ張った。



引っ張ってみたら、マーティンは連投の疲れも見せず、マンシー、スミスを連続三振に抑えた。そこで、前回の登板でアウトに穫ったベリンジャーにもぶつけたわけだ。

2−2カウントからスライダーをファウルでしのぎ、6球目95マイルのど真ん中のストレートをベリは打ち損じてファウルにした。

これで私はアタマを抱えた。またも三振と覚悟を決めた7球目。91マイルのスライダー。これもファウル。この瞬間、私は、ここまでの劇的起伏の数々がベリンジャーを主役に押し戻すための、神が描いたストーリーなのではないかと感じた。

ブレーヴスが走塁ミスで3点どまりだったのも、ムーキーのスーパー・キャッチも、ヘルナンデスの同点ホーマーに次ぐテイラーの本塁タッチアウトも、3対3のステージ、勝ち越しホーマーへの誘いであると、信じたのだ。

ベリは打つ!

と、熱気をこめて見守った8球目は真ん中高めのストレートだった。このシリーズで、ベリが空振りに斬って取られた高さよりも、ほんの1センチ、低かったかもしれない。

スイング一閃。当たった瞬間に、やったあああああああと叫ぶ一発だった。



この1点リードを7回から投げたウーリアスが、打者9人をシャットアウトで守り切った。ウーリアスは三振0の変わりに安打も四死球も0。三回を39球でしめくくる盤石のピッチングだった。


困った。ドジャースがワールドシリーズに行き、レイズと対戦する。色々予定があるのに、どう切り抜けたものか。困った。



さて、中断した「映画の文学性、あるいは映像に於けるLITERAL MINDのスイッチはどこにあるのか、及び、どのボタンを押せば、それがマックスに機能するのか、又はシカゴ7はいかにして異端の鳥を焼き鳥にしたか」論に戻ろう。

映画「異端の鳥」の原作は1965年に出版されたイェジー・コシンスキの処女長篇小説「THE PAINTED BIRD」だ。(1972年に出た邦訳本のタイトルが「異端の鳥」だった)。コシンスキは1933年生まれのユダヤ系ポーランド人。出版当初、この作品はホロコーストを生き抜いたコシンスキの自伝的小説といわれたが、後年、彼はそのことを否定している。

災禍を逃れるため両親から離れて片田舎でカトリックを装ったり、過酷な戦中体験がもとで5年間失語症になったりという部分は小説に使われているようだが、同時に、盗作や英語ゴーストライターの疑惑なども指摘されている。英語に関する疑惑は、出版当時、コシンスキの英語力が充分ではなかったことに起因している。


いずれにせよ、コシンスキはベストセラー作家となってアメリカの上流社会に食い込み、ハリウッドの輝ける喧噪にもどっぷり浸かった。殊に、同い年で境遇が似通ったユダヤ系ポーランド人のロマン・ポランスキーとは親しく、シャロン・テート惨殺事件の晩も、ポランスキー邸に行く予定だったという。

私は、コシンスキ本を読んだことはなかったが、映画「チャンス/BEING THERE」の原作者兼脚本家、ウォーレン・ベイティの「レッズ」での俳優としての彼は知っていたし、1991年、ニューヨークでの奇妙な自殺の記事も、当時LAに住んでいたので現地紙を読み漁った記憶がある。

コシンスキは睡眠薬を吞みビニール袋を被り窒息死を選んだのだった。それが、盗作疑惑を追求する記事や本の出版で鬱状態にあったコシンスキの、人生との決着の付け方だったというのが通説だが、不可解な要素は今も残る。誰かに殺される可能性も充分にある生き方だった。


続きは後日。



追記。

ベリが2−2から3球ファウルして打った8球目の球種はシンカーだった。その前の回、代打のキケ・ヘルナンデスが左腕ミンターから同点ホームランを放ったのも、2−2から3球ファウルした8球目だった。

奇妙な符合は、もうひとつある。ドジャースが、プレイオフにおいて後がないエリミネーション・ゲームに3連勝したのは1981年のディヴィジョン・シリーズ(NLDS)に続いて二度目だ。対戦相手はノーラン・ライアンのいるヒューストン・アストロス。BEST OF 5形式だったので2敗したあとの3連勝だった。

NLDSを制して進んだリーグ・チャンピオンシップ・シリーズ(NLCS)の相手がモントリオール・エキスポスで、これもBEST OF 5だった。私がドジャースのゲームを初めて見たのはそのGAME5だった。フェルナンドメニアなる現象をとりあえず見てみよう程度の興味であったが、大好きなリチャード・ウィドマークが最前列でドジャースを応援している姿に感動した。当時、ウィドマークの一人娘がドジャースの伝説のエース、サンディ・コーファックスのヨメだった。

この試合はフェルナンド・ヴァレンズエラの力投とリック・マンディの勝ち越しホームランで勝った。スコアは2対1だった。ドジャースはヤンキース相手のワールド・シリーズに駒を進め1981年の王者になり、以来、私はドジャース一筋で生きている。

ちなみに当時のナンバーワンお気に入りはヴァレンズエラではなく、ペドロ・ゲレーロ。それがカーク・ギブソンになり、マイク・ピアーザ、エリック・キャロス、アンドレ・イーシアと続いてコディ・ベリンジャーに至っている。

1981年はストの影響で、2020年と同じようにレギュラー・シーズンが短かった。


2020/10/17 (土)

コロナ禍のNLCS。


ドジャースがGAME5をベッツとシーガーとスミスの活躍で制し、首の皮一枚つながった。とはいえ、ベリは4打数無安打の3三振。クッキー(絶好球)を空振りする醜態が続き、私は絶叫マシーンとなった。せめてもの救いは実況観戦ではなかったことだ。明日早朝のGAME6は、ドジャースは負ける/ベリは三振百万回という想定のもと、ライヴを見ることにしよう。

しかし、にっくきアストロスが3連敗から3連勝したのが微妙に嫌な感じだ。あの根性ワルどもがワールド・シリーズに行って、被害者であったドジャースが行けないなどという不公平は許せない。アストロスが行くならドジャースも行く。そして、完膚なきまでにアストロスを叩きのめす。

となると、本業に身が入らなくなるから、ワールド・シリーズはブレーヴス対レイズになった方が無難だ。


2020/10/16 (金)

「シカゴ7裁判」と「異端の鳥」を見て考えたこと。


「異端の鳥」をシネプレックス幸手で見た翌々日、「シカゴ7裁判」をシネリーブル池袋で見た。どちらも映画館の大画面で見たかった作品だ。

なぜ幸手まで足を伸ばしたかというと、「異端の鳥」上映館でもっとも大きい劇場が幸手にあったからだ。客席は266席。ハコ自体はメインの上映館シャンテ・シネのほぼ倍だ。

普段ならシャンテで充分なのだが(アカデミー会員証も使えるし)シネスコでモノクロの作品は大きな劇場でゆったりと見たい。理想は、キュアロンの「ROMA」に出て来たような古き佳きパレス・スタイルの劇場なのだ。

しかも、その日は栃木でゴルフの予定が入っていた。12時半までにゴルフ場を出れば帰り道の幸手で悠々観賞できると踏んで、サクサクとプレイをした。



「シカゴ7」は数日待てばNETFLIXで配信が始まる。

が、私をノックアウトした「ニュース・ルーム」や「ソーシャル・ネットワーク」、「ジョブス」の脚本を書いたアーロン・ソーキンの作品だから名画に決まっている。先ずは劇場で、映画として堪能したかった。

「モリーのゲーム」では脚本ばかりでなく、演出も達人であることを証明したソーキンなのだ。現時点で、私がもっともリスペクトするアメリカ映画人のひとりでもある。脚本、演出、作品部門で来年のアカデミー賞の大本命であろうと確信もしていた。劇場観賞が筋である。



厳密にいうと、「異端の鳥」を見る前の夜、HBOのリミテッド・シリーズ「ある家族の肖像/I KNOW THIS MUCH IS TRUE」のエピソード1と2を見た。「シカゴ7裁判」を見る前の夜に残りのエピソード3〜6を見た。だから、実際にはこれら3作品を見て考えたことを綴ろうと思う。

何を考えたかというと、大雑把にまとめるならば、映画の文学性、あるいは映像に於けるLITERAL MINDのスイッチはどこにあるのだろう、といったようなことだ。どのボタンを押せば、それがマックスに機能するのか。

きょうはドジャースがリーグ・チャンピオンシップ・シリーズのGAME4を落として、ブレーヴスがシリーズ制覇に王手をかけた。というか、22才ルーキーのブライス・ウィルソンから1安打1点しか取れなかった打線の不甲斐なさにうんざりしてしまった。単純に、ブレーヴスの方が、投打にバランスのとれたいいチームであることがわかってしまった。明日のGAME5でドジャースが勝てても、ワールド・シリーズに進むのはブレーヴスだろう。ドジャースは今年もまたWAIT TIL NEXT YEARのチームなのだ。

ベッツを入れても、打線には穴がありすぎた。先発もブルペンも不揃いの腐れかけたリンゴたちだった。ベリンジャーはGAME2の9回裏とGAME3で気を吐いたが、カレ自身が勝利へのティケットではないようだ。

というわけで、気力が萎えた。「考えたこと」を並べ立てるのは後日にしよう。ただ結論だけをとりあえず列記しておく。

「シカゴ7裁判」は間違いなく私の本年度のベスト1である。評価は今年初のA+。

「ある家族の肖像」はエピソード1と2がA評価で、3以降はダレる。というかマーク・ラファロの苦悩顔に飽きる。総合評価はB。

「異端の鳥」は脚本にもキャスティングにも不備がある。「炎628」に大きく差をつけられたゆえ、評価はB-。


2020/10/08 (木)

カマラ対ペンス対ドジャース対パドレス。


MLBポスト・シーズンNLDS第二戦と副大統領候補のディベイトが重なってしまった。無論、優先順位の筆頭はドジャースだが、先行したディベイトをちょっと見て、ゲームの合間にもちらちら眺めた。

カマラは予想よりもトーンダウンして「尊厳ある主張」に焦点を合わせていたように思う。総合評価は今晩到着のLAタイムスを待とう。LAタイムスの、というよりは良識あるメディアのトランプ攻撃は抜群に面白い。



BSNHKのディベイトで気になったのはキャスター、小林雄だ。国際部記者あがりだからアナウンサーの巧みは期待できないにしても、言い間違いが多過ぎる。声のトーンもダメ。コメンテーターの渡辺靖教授が落ち着いた論評だっただけに、小林の力量不足が際だった。

シロウトまがいのアナウンサーの氾濫は日本メディアの最大の問題点で、今に始まったことではないけれど、発声、見識、ルックスの三拍子揃ったキャスター、コメンテーターが少ない。

2、3日前の報道ステーションではゲスト・コメンテーターの中林美恵子教授の露骨なトランプ擁護に辟易とした。

この人は発声とルックスはAクラスだが、見識の点で問題がある。知り合いの「見識ある」共和党支持者がトランプは「神サマの贈り物」といったという話を唐突に披露した中林教授に、私は愕然とした。マックスの不快感をおぼえた。共和党ズブズブの評論家にしても、ひどいコメントで、真っ当なキャスター2人も困惑していたように思う。

LAタイムスのコラムのひとつが、バルコニーでナルシストぶりを発揮するトランプを二言で揶揄していた。

ベニト・トランポリーニ。

ベニト・ムッソリーニもバルコニーが好きだった。



さて、ドジャース。

2020シーズンは60試合無観客で戦われたわけで、一喜一憂コメントを載せる気にもならなかった。が、ドジャー・ゲームはコロナ禍の中でも忠実にフォローしていた。2019年MVPのコディ・ベリンジャーが不本意な成績でもドジャースは強かった。

ドジャースにとってのGODSENDはムーキー・ベッツである。正真正銘の神サマの贈り物だ。ムーキーがリードオフに座って、打線に大いなる弾みがついた。

パドレス相手のNLDS第一戦もムーキーは見事だった。本日の第二戦でも存在感を存分に発揮した。

ベリのホームランも出たし、ベリのスーパーキャッチも出た。

申し分ない展開だった。クローザーのケンリー・ジャンセンが出て来るまではーーー。ジャンセンは、ミゼラブルなジャンセンだった。最後は私が叫び狂うスリラーとなったが、ともかく、勝った。

ドジャースは、明日のGAME3で勝って、そのまま次のリーグ・チャンピオンシップ・シリーズに繋げてくれると信じている。その先に、1988年以来の、尊厳回復のためのワールド・シリーズがある。

いずれにせよ、カーショーがエース、ジャンセンがクローザーとして君臨したドジャースの時代は終わった。カーショーはこのポスト・シーズンでは踏ん張っている。とはいえ、来シーズン、エースの座はウォーカー・ビューラーもしくはダスティン・メイに奪われるだろう。クローザーは、22才のブルスダー・グラテロルを育てる時期になったようだ。


 a-Nikki 1.02