2006/11/03 (金)

激しい秋、深まる。

普通、クランクインが近づいて来るとその作品のことだけで充分刺激的な毎日を過ごせるのだが、今回は前例のない刺激がカラフルに展開している。あまりに現実が面白すぎる。と、どうしてもサイト更新がおろそかになる。書けないことが多いし。
 「生まれて初めて」体験が相次いでいる。生まれて初めて谷川岳を見に行った。生まれて初めて秋葉原でヴェガス・スタイルのショーを見た。生まれて初めて富山の漁師スタイルの白子鍋を食べて歓喜した。生まれて初めて「採用内定通知」なるものを受け取った。生まれて初めて「隠密」を使った。生まれて初めて、生まれて初めてシリーズが何ヶ月も続いている。これは地球が急速に温暖化したためだろうか。
 いずれにせよ、この夏から秋にかけての「生まれて初めて」モノは2007年になると続々我がキャリアを彩ることになる。生まれて初めての忙しい10月は生まれて初めてのもっと忙しい11月になだれこみ、もっともっと忙しいが愉しい(筈の)12月が続き、生まれて初めての多忙な新春がやって来る。
 Oh beat it man. Let's not brag about outlining the situation with approximate truth. You've got to quit studying sociology on the wrong side of sidewalk.
 と、心の声が言うので具体的な映画の話をしよう。

 「ワールド・トレード・センター」を見た。
最初の15分で2回泣いた。うまい演出と見事なアンサンブルキャストに唸った。つまり、最初の15分だけ。
PAPD(港湾局警察)のオフィサーたちがマクラクリン(ニコラス・ケイジ)に率いられて恐怖を感じながらもワールド・トレード・センターの「戦場」に赴くまでは見事。が、入った途端崩壊が始まる。で、埋まる。
そして、主人公は寝たきり演技となる。
 感動的な実話である。が、お話は「アンビリバボー」の再現ドラマで充分。大スクリーンで2時間プラス語る話ではない。映画にすべき911の物語はゴマンとあるのに、オリヴァー・ストーンは何をトチ狂ってこれに引っ掛かったか。
あきらかなのは、彼のキャリアが瓦礫に埋もれ救出を待っているということだ。それでマクラクリンに感情移入をしてしまったのだろう。それにしてもこの字幕はなにゆえマクラクリンと発音される名前を「マクローリン」にしてしまうのか。同じスペルでそう発音する人もいるが、映画では「マクラクリン」と呼ばれている。字数も同じなのに、敢えて「ラク」ちゃんを「ロー」ちゃんに脚色したのはなぜ?

「ワールド・トレード・センター」ではさすがに「汚し」にあたる「日本語注釈字幕」はなかったが「父親たちの星条旗」ではまたまた「日本人のための注釈字幕」が大量発生した。主要登場人物の役名が画面右に出るのだ。
無論、オリジナルではそんなバカなことはしていない。なぜなら、無名の人々の名前が出たところでだれがだれだか憶えていられないからだ。ハーヴ・プレスネル演ずる退役軍人がニール・マクダノーの演じた大尉の老後などということは、字幕で注釈を入れられてもわかるわけがない。英語名に慣れているプロの映画監督であるぼくでも混乱するのに、一般観客がこんな「注釈字幕」で「フーズ・フー」を納得できるだろうか。
ノー・ウェイ、ホゼ。
サトルティやサーカズムを殺す解説字幕だけでも問題があるのにこういう日本独自の「注釈字幕」が出て来た現実は看過できない。数日中に監督協会の国際部部会もあるので、国際部委員長として先ずここで何らかのアクションを起こすつもり。他にこういった「やり過ぎ字幕」の実態があれば教えて欲しい。

 さて、「父親たちの星条旗」はやり過ぎ字幕があるなしに関わらず凡作であった。クリント・イーストウッドが名監督であることは否定しない。「許されざる者」と「ミリオン・ダラー・ベイビー」という名作があれば、他のすべての監督作が駄作凡作の類いでも紛れもない名匠なのである。ぼくの見たイーストウッド23作品に関する限り名作はこの2本。他に佳作が2本。凡作駄作が19本。未見4本。

 イーストウッドは何度も書いて来たがあらゆる意味で「経済的」な監督である。映像に関しても「ケレン」とか「豪華感」とか「美学」は求めない。キャリアを眺めてもエピックは一本もない。エピックであるべきものが無惨な失敗を遂げた例はいくつかあるが、イーストウッドがデーヴィッド・リーンではないことははっきりしている。コンヴェンショナルであればいい、というのが体質だ。つまり、シンプルなナラティヴで自分もしくは自分と同世代の人物を描くときに真価を発揮する。

 「星条旗」の第一の問題点は大きく分けて4つの時間軸が同時進行することだ。こういった時間軸の出入りを統御できるのは「ケレン」と「映像美学」を存分に発揮できる映画作家なのである。その間合いがわからぬからかったるくなる。
様々な問題をはらみながらもバリー・ペッパー演ずるストランク軍曹中心に硫黄島での激戦が形を整え始めた矢先、あまりにも理不尽なアイラ・ヘイズ(アダム・ビーチ)とギャグノン(ジェシー・ブラッドフォード)の「殺すぞ」の口論を放り込んで来る。混乱以上に腹立たしい幼児的な「ショッキング」編集だ。ふたりの口論はビルドアップがなければ成立しない。しかも、ナイフを喉元に突き付けての「脅し」が入っているのだからリアリティを期待するむきには白ける。映像のケレンをお定まりの口論のケレンと混乱している。ここで「戦況」への興味を断ち切られたぼくは、以降、作品への「好意」を失った。
 こういった構成面の問題は多々あるがいちいち検証はしない。

 イーストウッドのもうひとつの弱点はキャスティングである。ライアン・フィリッピ(レイフ・ファインズがラルフ・ファインズと呼ばれていた時期もあったが、ライアンもフィリップではないのだ)はほぼ妥当な人選にしても、他のふたりの主役、アダムとジェシーはお粗末きわまりない。役の書き込みが出来てない上にふたりの芝居に問題があるのだ。TVや映画でそこそこの実績のある若手というだけ。アイラ役は「硫黄島の英雄」のトニー・カーティス以来何人かの役者がトライしている。あまりにも有名な悲劇なのだ。今回のアダムは、やたらと泣き叫ぶアイラで、そのセリフ廻しに切れもなければ哀感もない。ひたすらオーヴァー・ザ・トップ。
 イーストウッドの演出は、本人が持っているものを引き出すことにあるからモーガン・フリーマンやジーン・ハックマン、あるいはショーン・ペンやティム・ロビンスといった名だたるスターは成果を倍増できる。ダメなやつはダメさがもろに出る。
 ジェシーはブッシュに代表される鼻孔と片頬リフト・スマイルの組み合わせがひたすら不快。二流のTVスターでしかない。若手ではイギーのビリー・エリオット君が唯一チャーミングだったが戦場に出た途端ほとんど忘れ去られたような描き方になってしまった。

 原則として、戦闘シーンの演出が下手である。「プライベート・ライアン」と隔世の感がある。というよりも歴代の第二次大戦映画の戦闘シーンに比べて劣るのだ。「ブラックホーク・ダウン」で兵士ひとりひとりが識別しにくいというのは判る。近代戦では装備がヘヴィで顔が判別しにくくなっている。第二次大戦の戦場を扱って、これだけ兵士の顔が判別できないものも珍しい。キーとなるシチュエーションでの描写不足に伴ってセンスの悪いハンドヘルド多用という問題点が上げられる。
 イーストウッドの師匠はドン・シーゲルである。シーゲルにはコンパクトな戦争映画の佳作「突撃隊」がある。このキャラクターの描き分けと演技合戦の見事さに関しては2007年3月出版の「原田眞人の監督術」のオープニングでコト細かに分析している。「星条旗」を撮る前にイーストウッドが学ぶべきだった映画である。

 キャスティングは全編にわたってお粗末。魅力のない役者にキーとなる傍役を与え、重要な端役を三流役者で壊している。全スピーキング・パーツでぼくを納得させてくれたのはハーヴ・プレスネル、ニール・マクダノー、バリー・ペッパーの三人だけ。「グッドナイト&グッドラック」では機能していたトム・マッカシーは原作者に似ているということで選ばれたらしいが、まったく魅力にも乏しく、NHKの「その時歴史は動いた」に出て来る再現ドラマの役者(顔は半分照明でセリフらしいセリフもない)程度の存在感に成り下がっていた。これもセンスの悪い演出の典型。「市民ケーン」方式はこの物語にはむいていない。

 事実のリサーチ力に関しても疑問が残る。これに関しては象徴的に導入部とエピローグとを上げておこう。先ず導入部だが、ハリウッド産戦争映画のリアリティを測る格好のバロメーターがある。日本人兵士の「言葉」だ。塹壕に倒れ込み、フィリッピに刺殺された兵士が死の間際に「助けて」という。さらに火焔放射器でトーチカを焼かれた逃げまどう日本兵に「助けてくれ」と言わせている。硫黄島で「助けてくれ」と言った日本人もいただろう。が、問題は、「父親たちの星条旗」で聞こえる最初の日本語二言が「助けて」なのである。ぼくがリサーチしたかぎり、硫黄島の戦闘の上陸戦開始から一週間の戦闘に関する限り「助けて」という心境の日本軍兵士は存在しなかった。米兵に「助けて」と救いを求める回路が存在しなかったし、その余裕もなかった。焼かれて言うならば「熱い」「畜生」「このやろう」の類いであり、先ず言葉が出て来ない。

 終盤では、負傷したフィリッピが硫黄島に飛来した爆撃機を目撃する。B29であったかどうか記憶は定かではないが、そのときの彼のヴォイス・オーヴァーが、またすごい。硫黄島に飛行場が作られ、そこから飛び立った爆撃機が日本本土を空襲し戦争を終わらせた、というような語りであったと記憶している。だとしたら事実無根である。
 硫黄島の空港から本土空襲の爆撃機は飛び立っていない。B29はサイパンから飛び立ち、硫黄島からは護衛戦闘機のP51マスタングが飛び立った。これは戦争映画のリアリズムとしては極めて重要なポイントである。というのも、ピュリッツアー賞作家のドリス・カーウィン・グッドウィンが事実を誤認してそのような記述をして、さらにウィリアム・マンチェスターもその事実誤認を孫引きしてP51戦闘機乗りたちから抗議を受けた事実があるからだ。「父親たちの星条旗」チームがそういうプロセスを無視して「リアルな映画」を作ったとしたらなんと杜撰な、としか言い様がない。

 映画の主張ははっきりしている。アメリカにおける英雄崇拝ヒステリアの虚しさだ。イーストウッドは「ホワイト・ハンター、ブラック・ハート」でも同様の論点を展開している。しかし、作品は失敗作だった。これも同じ。主張はあっても描かれる人物に真実がなければ映画は軽くなる。

 「父親たちの星条旗」が成功する唯一のアプローチは「エピックを描く気構え」であったと思う。デーヴィッド・リーンである。イーストウッドには最初から勝負権がなかった。過去を振り返る視点はあってもいい。が、硫黄島の戦闘とスリバチ山での国旗掲揚にともなうヒロイズムの安っぽい「営業」は一貫した時間軸で綴られるべきであった。あちらこちらに時間が移るためにこの映画ではドラマの核となるエピソードが決定的に欠けているのだ。それはつまり、三人の主役への「英雄招待」の瞬間である。
 だれがいつどこでどういう形でコンタクトされたのか一切描かれていない。いきなり、憤ったアイラ・ヘイズが同僚のギャグノンにナイフを突き付け「おれの名前を出すな!」という狂気のタイム・ジャンプに走ってしまう。戦闘、多くの戦死、そして生き残ったものへの「英雄招待」、国債セールスの全米ツアーでの有頂天と失意という流れがあれば、テーマも生きたし人物も生きた。この正攻法を無視した脚本作りで「星条旗」は大きくつまづいた。
 とはいえ、日本側の視点で描くという「硫黄島からの手紙」への期待感は大きい。アメリカ側も充分に描けなかったイーストウッドが通訳を通してどれだけ演出できたのか、不安はある。しかし、通訳を通しての演出でもポール・シュレーダーは「MISHIMA」で、見事に抑制された演技を日本側キャストから引き出した。イーストウッドならばそれ以上のものを期待してもよさそうである。が、同時に、上記した彼の演出姿勢がある。技術もハートもある渡辺謙は見事な演技を残すことはできるだろう。が、「助けて」が二度続くような安易さで傍役端役に接しているのではないだろうか、という不安も残る。
 先月、LAタイムスに載った脚本担当のアイリス・ヤマシタへのインタヴューを読む限り、日本語のセリフはいくつもの翻訳会社が受け持ったものであるらしい。つまり、ライターは不在だ。例えライターがいたとしても「男たちの大和」のセリフではぼくが期待する戦争映画は生まれない。だから、鮮度のいいリアルな兵士の言葉を期待していいのかもしれない。しかし、アイリスの言葉を聞けば聞く程、ぼくは不安になった。
 硫黄島の日本軍指揮官栗林中将を描くのは日本人脚本家にとってもむずかしい。市丸中将の「ルーズヴェルト君への手紙」はどのような形で映像化されているのか。硫黄島で死んだ英語の達人であった日本人兵士たちは?第二次大戦に於ける唯一の「将軍が先頭に立った突撃」は?予告編の栗林中将はきらびやかな勲章に彩られた軍服を着ていた。栗林中将は硫黄島に勲章を「持ち運ぶ」軍人ではなかったと理解しているが・・・。渡辺謙が相当数のメモを送って脚本を補強した、とアイリスは言っている。だとしたら安心してもよさそうだが、いくら謙さんでもできることとできないことがある。はたしてーーー。どういう結果が出るにせよ、「硫黄島からの手紙」は今一番見たいアメリカ映画であることは間違いない。


2006/10/16 (月)

上海から来た男。

上海ではひどく憂鬱になった。ドジャースとヤンキースが同じ日に敗退した。そして、もっと衝撃的なニュースに気分が沈んだ。アンナ・ポリトコフスカヤの暗殺だ。彼女には日本でも翻訳された超一流の戦争ルポ「チェチェン やめられない戦争」がある。そのチェチェンでの戦争と人間の点描に深く胸打たれ、「となり町戦争」映画化権交渉の企画書に投影させたのが去年の夏。それを原作者が面白いといって映画化は進むかに見えたが結局、「となり町戦争」は我が手を離れた。アンナがえぐり出した世界はだれかが映像化しなければならない。「アルジェの戦い」を描いたジロ・ポンテコルヴォの感性と技術を持って。

上海では中国の俳優たちのオーディションもやった。あらかじめ写真選考して呼んだ40人ほどで、顔を知られた俳優は5、6人程度であったらしい。日本語を話す人も三人ほどいた。英語を話す人は皆無。しかし、成果は上々。狙いどおりのキャスティングは出来そうだ。

10月は東奔西走。ロケハンもあるしシナハンもあるしレクチャーもあるし新たなテリトリーも開拓しているし(まだ発表できない)様々な世代の様々な国籍の人々との出会いに細胞はますます活性化している。

昨日はある場所で486段の階段を降りて登った。それはそれは充実した苦しみであった。


2006/10/16 (月)

上海から来た男。

上海ではひどく憂鬱になった。ドジャースとヤンキースが同じ日に敗退した。そして、もっと衝撃的なニュースに気分が沈んだ。アンナ・ポリトコフスカヤの暗殺だ。彼女には日本でも翻訳された超一流の戦争ルポ「チェチェン やめられない戦争」がある。そのチェチェンでの戦争と人間の点描に深く胸打たれ、「となり町戦争」映画化権交渉の企画書に投影させたのが去年の夏。それを原作者が面白いといって映画化は進むかに見えたが結局、「となり町戦争」は我が手を離れた。アンナがえぐり出した世界はだれかが映像化しなければならない。「アルジェの戦い」を描いたジロ・ポンテコルヴォの感性と技術を持って。

上海では中国の俳優たちのオーディションもやった。あらかじめ写真選考して呼んだ40人ほどで、顔を知られた俳優は5、6人程度であったらしい。日本語を話す人も三人ほどいた。英語を話す人は皆無。しかし、成果は上々。狙いどおりのキャスティングは出来そうだ。

10月は東奔西走。ロケハンもあるしシナハンもあるしレクチャーもあるし新たなテリトリーも開拓しているし(まだ発表できない)様々な世代の様々な国籍の人々との出会いに細胞はますます活性化している。

昨日はある場所で486段の階段を降りて登った。それはそれは充実した苦しみであった。


2006/10/03 (火)

またまた上海出張です。

1週間ほどパソコンは使いません。ドジャース対メッツも見ることかなわず。未曾有の忙しさです。

ついでに遅れて来た「LS」質問におさらいを兼ねて応えておきましょう。

「大村」は大村益次郎とは無関係。明治新政府有力者の何人かを合わせたような架空の人物。敢えて言えば、岩倉具視+大久保利通+木戸孝允。映画では「参議」であって「大村財閥」のCEOであって幾分皇族っぽい。

セリフに関しては「屈辱を賜り・・」まで聞こえれば後は聞こえなくとも充分。ポイントはそこまで。残りは「ますのか」とかそんなことでしょう。

アメリカで発売の監督作dvdに関してはKAMIKAZE TAXI BOUNCE KOGALS ROWING THROUGHといったところでお調べください。

「魍魎の匣」情報は来年までなんも出ないでしょう。一年後には見ることができるかもしれない。


2006/10/03 (火)

またまた上海出張です。

1週間ほどパソコンは使いません。ドジャース対メッツも見ることかなわず。未曾有の忙しさです。

ついでに遅れて来た「LS」質問におさらいを兼ねて応えておきましょう。

「大村」は大村益次郎とは無関係。明治新政府有力者の何人かを合わせたような架空の人物。敢えて言えば、岩倉具視+大久保利通+木戸孝允。映画では「参議」であって「大村財閥」のCEOであって幾分皇族っぽい。

セリフに関しては「屈辱を賜り・・」まで聞こえれば後は聞こえなくとも充分。ポイントはそこまで。残りは「ますのか」とかそんなことでしょう。

アメリカで発売の監督作dvdに関してはKAMIKAZE TAXI BOUNCE KOGALS ROWING THROUGHといったところでお調べください。

「魍魎の匣」情報は来年までなんも出ないでしょう。一年後には見ることができるかもしれない。


 a-Nikki 1.02