2007/12/14 (金)

いらっしゃいませ。

久しぶりに本を大量購入し平行読書に入ったせいか奇妙にドラマチックな夢を見た。「紫の匂う」というタイトルで竹内結子が娘の役。原田の芳雄さんがおとうさん。こっちは探偵だか変質者だかの捜索者。

逃げている娘を探すために日高昆布の切れ端のような笛を鳴らすと娘は紫のスモークを体から発する。同時におとうさんが歩いて来たルートでは女たちが女性性器から紫の煙りを噴出しはじめる。おかしいでしょ。それがなぜか、ヨーロッパ産のポルノ映画の1シーン風で、西洋人のおやじたちが一列に並んで上半身の見えない女性たちの下半身を拝んでいるんだけど紫がもくもくしていてガス室みたいになっちゃってる。

と思うと、はるか昔のB級アクション俳優、ポール・マンティーが出て来て、桟橋に近い浅瀬で濃い顔のブロンド女性とよろしくやっている。おれはその近くで泳いでいる。体の下に日高昆布の切れ端が浮遊していて、これを足で蹴って追いやると、いつの間にかマンティーがいなくなってひとりになった濃い口ブロンドに向かって漂う。と、見る間に日高昆布は数十倍に膨れ、女性を包み込むマント(マンティーがマントに変格か?)になって、口にあたるような切れ目で濃い口ブロンドにキスをする。そして、この尻軽女め、というようなことを言ったかと思うと彼女を包んで海底深くに消え去って行くのだ。どうやら、日高昆布は殺された彼女の夫の生まれ変わりだったらしい。

というのが大筋。で、夢の中でこれは「紫の匂う」というタイトルにしようと考えたおれがいた。

ゆき様。メディア露出はいろいろあると思うけれど、おれ関係でこなした取材はヴァラエティ・ジャパン、アエラ、CUT(クドカンとの対談)など。新聞関係は名古屋、大阪、福岡、静岡の方が内容が濃いだろうね。東京は合同取材だけだったな。これからのイベントは、17日にぴあ主催のティーチイン、初日の舞台挨拶。これは一回目と二回目の観客を合併というスタイルではなく、一回目の上映後と二回目の上映前という二回戦になるらしい。公開してからも何ケ所かで質疑応答セッションをやることもありうる。ま、ボロボロの興行だとダメだろうけれど。今は、勝てる気分でいるからね、みんな。

驚いたのは書店での「魍魎の匣」キャンペーン体制が出来ていないこと。昨日は恵比寿の有燐堂、有楽町の三省堂、八重洲ブックセンターと歩いたがどこにも「京極夏彦セクション」の平積みがない!!!!!!!それどころか13日発売の「京極トリビュート」本がまったく目立たないし「魍魎の匣」とのリンクも設定されていない。なんのために忙しい最中に4万語の原稿を上梓したのか、おれはがっくりして配給会社にチェックを入れた。配給の方もこれは寝耳に水であったらしい。

角川映画ではないにしてもこれはないだろう。要は書店側の判断らしいが、なんで「魍魎の匣」と京極作品を冷遇するんだ。こうなったら都心の書店をすべてチェックして宣伝協力体制を感じさせない書店とは縁を切るか、などとも検討中。

塩野様。マル囲みの数字はやめるようにしましょう。

105様のコメントは誤解されそうなので捕捉しておく。「2時間が4時間に感じられる」というのは本来は長くて退屈という意味なのだが、この夜は逆の意味でありました。壇上で京極先生が「2時間が3時間に感じられるほど面白い」というように得をするという意味で使ったわけであります。「一回見れば1時間お得、24時間見れば一日得をする」、ともおっしゃった。というわけで105様は京極レートの倍「得をした」わけで、このペースで見続けると12回で一日お得となるわけです。正真正銘のおほめの言葉なのでくれぐれも誤解なきよう。

ついでに。

ヤフーの映画サイトに「映画投票」ありますね。ここに12月21日、22日公開作品のタイトルがありますね。言われて見たんですね。「魍魎の匣」は「ナショナル・トレジャー」に倍近くの差をつけられて2位なんですね。3位の「茶々」からも追い上げ食らって僅か5票の差なんですね。これ、すごくいやですね。「ナショナル」に負けるのはまあ理解できるにしても「茶々」の後塵なんて笑っちゃいますね。やっぱりタカラヅカのグループ投票なんですかね。原田フリークスもがんばってくださいよ。頼みますよ。ちなみにもうちょっと複雑な手続きを要求すると思われる「見たい人」コラムでは「魍魎」は「茶々」に対して圧倒的優位を保っておりました。「ナショナル」や「レジェンド」には圧倒的不利でしたけど。

最終的にはこのハリウッド空虚大作ともいい勝負をすると信じたいわけで。心は殆ど北関東新聞です。「おれたちだって全国紙に対していい勝負していただろ!」。「クライマーズ・ハイ」にはこういう台詞があるわけで。ま、いろいろ敏感になるのは「連ちゃん勝負作」の「一番バッター封切直前」ということだからでしょうね。長打で塁に出ようぜ!

メディア露出の付け足し。ウチ関係では12月21日ころに発売されるキネマ旬報、インビテーション、TSUTAYAマガジンの映画職人コーナーがあった。俳優関係では沢山あるだろうけれど書店でチェック入れるのが一番だと思う。


2007/12/11 (火)

ブロードウェイへの道。

一年前のきょう、おれは千葉鋸山で「魍魎の匣」のシーン#1、2、3を撮っていた。午後11時までかけてインサートのシーン#81を含む榎木津と久保の「戦場の島」関係をすべて撮り終えた。阿部ちゃんとクドカンのケミストリーも抜群で、素晴らしいオープニングが撮れたと感じた。撮影実数3日目にして、傑作になる手ごたえを覚えた。これ以降、春日部、鹿沼と撮影隊は動き、次々と名場面を記録することができたのだ。

その「魍魎の匣」一座が本日、地方キャンペーンを経てよみうりホールでの完成披露にたどりついた。気分は、ブロードウェイの晴れのステージに立つ感慨。ここからは一気に口コミが増殖し、「魍魎」は正月興行を席巻する。と、信ずる。なぜなら、我が社には「ごまかし」はないから。本物の映画だから。

既に死屍累々、悪評さくさくの正月興行にあって、本物はウチだけの気概だ。勝とうぜ、みんな。52キロの中村美里になろうぜ。あいつは本物だよ。


2007/12/08 (土)

続「荒野の決闘」

前日分から続く。

クレメンタインの部屋を「死んだチワワの部屋」などと勘違いしてしまうギットであるがゆえに、このドキュメンタリーで語られていることは疑いをもって接した方がいい。例えば、プレヴュー版(以下PV)がもともと30分以上長かったというコメント。監督たるぼくの目から見て、ミッシングのショットやエピソードはあるかもしれないが、どう考えてもこの104分ヴァージョンに20分以上足せるシーンがあったとは思えない。2時間を超えるヴァージョンがあったとして、それはラフカットではなかったのか、というのが素朴な感想だ。

ラフカットをさらに編集したものを6月のプレヴューで見せているとしか思えないのだ。そのときの2000人の反応に触れて、ザナックは7月にハサミを入れたりリテイクをしたものと思われる。

要は、フォードもPVの編集は必要だと感じていた。これより二年前の「怒りのぶどう」も最終的にはザナックの感性で編集されて名作としての位置を確立しているのだ。しかし、「荒野の決闘」に関する限りFV(ファイナル・ヴァージョン)はフォードの思惑をはるかに越えた改変がなされた。監督が理想とするヴァージョンが97分のFVではなかったことは明らかである。

おれが教えている日大国際関係学部のクラスのひとつで、このドキュメンタリーを見せて生徒の意見を聞いた。このクラスでは日米比較文化論として田草川弘著「黒澤明VSハリウッド」を教材に使いながら、「暴走機関車」と「トラトラトラ」に於ける黒澤明のアメリカ進出失敗を論じている。常時出席する生徒は9名程度の小さなクラスであり、いわゆる映画ファンはひとりもいない。それでも黒澤明の時代を論じるプロセスで過去の黒澤作品を自主的に何本か見て、さらに黒澤の心の師匠としてのジョン・フォードのことも理解している。しかし、フォード作品を見たものはひとりもいない。そういう生徒たちにPVとFVの違いを論ずるドキュメンタリーを見せたら、どちらのヴァージョンを好むだろうか。

ギットが語る比較のポイントは以下の10ケ所である。最初に弟ジェームスの墓地に詣でるワイアットのシーンが撮り直されたことが語られるが、ここでは撮り直し以前の映像がないために比較にならず生徒たちの感想は省いた。

@ PV/リンダ・ダーネル演ずるチワワがサルーンでバーテンと話したあと外へ出て駅馬車到着を眺める。そこへジョン・アイアランド演ずるクラントン一家の末息子ビリーが現われ、彼女に言い寄る。が、彼女はBe a good boy Billy.と軽くあしらいサルーンに戻って歌の最後のフレーズを歌い、アープのポーカーテーブルへ近づく。FV/バーテンと話したチワワはそのままアープのポーカーテーブルへ。中間部分はすべてカット。

A アープとドク・ホリディ(ヴィクター・マチュア)のサルーンでの最初の会話。PVではシャンペンの味をアープが酸っぱいと批評する。FVではそのくだりがない。

B 劇場。PVでは情景カットが多く床屋の椅子に関するジョークがあり。

C 翌日の駅馬車到着。PVではマンション・ハウス(ホテル)の前にデッキを歩いてやってくるアープと椅子との最初の出会いがあり、駅馬車到着時間に合わせてポーリーンとアリスというふたりのウェイトレスが所定に位置につき鐘を鳴らす素晴らしい朝の情景がある。FVはここを殆どカット。駅馬車が到着すると、ギャンブラーに続いてキャシー・ダウンズ演ずるクレメンタインの登場。PVでは音楽が最後に静かに入り込むだけ。FVは日替わりのショットから浮き浮きのメロディを流し、クレメンタイン登場から「マイ・ダーリン・クレメンタイン」を流しシーンのラストまで引っ張る。

D クレムとドックの会話でFVはリテイクで短縮している。ここで「私からは逃げられないのよ」の字幕が入るのだが、ここは、Please John. You cannot send me away like this. You cannot run away from me any more than you cannot run away from yourself.というオリジナルの心情を大事にしなければいけない。充分に間はあるのだ。

E 日曜の朝、FVでは鐘の音のみでアープのヘアスタイルをめぐって床屋との会話。PVは町に到着する人々のショットがあり、「おおスザンナ」が流れる。そして床屋との会話に。

F チワワに金袋を投げて駅馬車で去るドックのシーン。PVは音楽なし。FVは劇的な音楽がシーンいっぱい続く。

G チワワの手術シーン。ドックが手術を始めるところで、FVはワイドに切り換え、チワワの呻きを聞かせてシーンは終わる。PVではドックが手術を始める前に顔を上げ「ミス・カーター」と看護婦のクレメンタインを呼ぶ。すると、クレムのクロースアップになり、彼女はReady Doctor Holliday.と応じて手術台に進み出る。カメラはそのままクレムの後方にいたアープに残る。

H 決闘の後、FVではドックの死体を兄モーガン(ウォード・ボンド)とともに見下ろしたワイアットは何も言わず去って暗転。フェイドインで、フェンス脇のクレムとの別れに繋がる。PVでは、ドックの死体を見下ろしたワイアットが一言、I'll get his boots.といい去る。カメラはモーガンに残る。フェイドインすると、場面はホテルの前。町長を始め、ポーリーン、アリスなど町の人々とアープ兄弟の別れがある。そこで、ワイアットは二階の窓、クレメンタインの部屋を見上げ、顔を見せてもくれない彼女への思いを断ち切るように馬を走らせる。そして、ディゾルブで、フェンス脇で佇むクレメンタインを登場させるのだ。

I 最後のクレムとアープの別れ。PVでは終始ふたりは2ショットで、思いのたかぶったアープが一歩前へ出るのだがキスはせず握手の手を差し出すのみ。ザナックは、ここで2000人のプレヴュー客を裏切ったと断言し、クレメンタインなめのアープを撮り足して頬に口づけをするFVを作った。

これらの違いに対する9人の生徒たちの反応は非常に興味深いものがあった。意見は5対4とか6対3といった割れ方が多かったが、二点だけ、8対1と極端に意見が分かれたところがある。CとGである。そして、どちらも、多数派はPV、プレヴュー・ヴァージョンに軍配を上げた。端的に言えば、音楽は控えめでシーンは長め、という選択なのだ。

全体の出来として、PVとFVとどちらが好みか、という質問には、PV6FV3という結果が出た。これはギットの結論とは違う。

ではおれの意見は、というとーーー。

先ず@。これはPV。短くしてもよいポイントだがビリーを印象的に見せるのはここしかないので、というのが理由。ただし、ギットが挿入した駅馬車到着ショットは不要。というか、入れてしまうと位置の混乱を招く。駅馬車はサルーンの前を通過して次のブロックのホテルに着くのだから。A、BはFV。単純に、長めの会話がポイントレス。殊に、床屋のジョークはフォードが面白がっているほどには面白くない。傷を見せるマチュアの芝居もうまくない。

Cは複雑だ。シーンとしては断然、ポーリーンとアリスがアープに挨拶するPVの方がいい。ここの朝の雰囲気がジョン・フォードの真骨頂なのである。椅子との最初の出会いもこれだ。基本的に音楽は控えめな方が好きなのだが、クレメンタイン登場に関しては、やはりノスタルジックな思い入れが強く、テーマを流したいと思う。というわけでPVとFVのミックスではあるが、どちらかひとつを選べと言われたら長めのPVを選ぶ。

さて、このくだりで日本人西部劇ファンの書き込みに「ギャンブラーの存在がわからない」というのがいくつかあった。これは本当の西部劇ファンなら疑問でもなんでもないのだが字幕の稚拙さもあって混乱が増長されてしまうようだ。このギャンブラーの存在は、アープの業務、として必要なのだ。駅馬車が到着するたびにタウン・マーシャルたるものチェックを入れなければならない。殊にトゥームストーンは「無法の町」として評判を呼んでおり、イカサマ賭博師の類いを呼び寄せる。マーシャルになったばかりのアープとしては水際でこういった輩を選り分け、速やかに追い払わねばならない。しかも、アープに「ミスター・ギャンブラー」とアドレスされた男はライフルを片手に持っている。要は、「兄弟はいるのか?」といった字幕をここでは敢えて「連れはいるのか」と訳すようなケアさえあれば混乱は避けられると思うのだが。

DはFV。PVのドックは喋り過ぎ。Eはどちらでもいいが、FV。Fはどちらでもいいが、うるさい音楽はない方が今の気分にはあっているのでPV。

問題はGである。

これは、映画の達人ザナックがなんで削ったのかわからない。先ず、ドックとクレメンタインのやりとりだが、この短い会話があって初めてクレメンタインの長い捜索の旅は完遂するのだ。ここで、彼女のプライドは報われた。次の人生に進むことができる。だから、ドックに呼び掛けられて「準備はできています、ホリディ先生」と答える彼女は晴れ晴れとしている。その彼女が手術台に移動してカメラはワイアットに残る。表情は暗部ゆえ見えない。ややあって、彼が俯くと我々はワイアットの憂いをプロフィールで眺めることになる。そして、引きサイズに繋がる。

実に美しい、作品の臍といってもいいショットだ。ここを落としたという一点で、ザナックはフォードに負けたと言える。このショットのない「荒野の決闘」に感動していたとは!

おれはショックでその晩眠れなかったくらいだ。当然ながらこのシーン以降、おれは全面的にPVをサポートする。アープがドックの遺体を前にしての一言、「ブーツはおれが取ってくる」は、西部男の束の間の友情の帰結として実に適確だし(墓地のことをブーツヒルと呼ぶのは西部劇ファンならば先刻承知)、朝の別れはひとつの世界を作り上げたフォードの業績を謳うためにも必要だ。むろん、キス・シーンを撮り足すなど言語道断。これだけの素晴らしい失われたエピソードを前にして、ザナックが手を加えたFVを「最高の形」と言い切るのは不遜だ。

さらに、付け加えたいのはこのPVは何らかの形で部分的に陽の目を見ているという点だ。ギットが迂闊にも触れなかったビリーを追うヴァージルの落馬(PVにあってFVにはない)も、@のチワワに言い寄るビリーも、そして別れのキスをしないアープも、おれは以前見た記憶がある。ギットがドキュメンタリーで言っているのはリバイバルやTVで放映されたのがFVということであって、それらと比較して「削除された」と思しきものを復活させたのがPVなのである。日本で公開されたヴァージョンが、FVでもなくPVでもないプリントだったことも充分考えられる。おれは、中学生のときにリバイバルの「荒野の決闘」を沼津東映パラスで見て以来、LAやロンドンの映画館、あるいはTV、ヴィデオで十数回見ている。それらがずべて同じヴァージョンだったとは思えない。

しかし、見直せば見直すほど、この特別版の日本語字幕には呆れる。決闘に赴くときのアープの一言、Got everything straight?が「いいか」ではふざけるな、だ。これは「手順はわかったな」だ。そういう策略の確認をして、オールド・クラントンの「ドクもいるぞ」に繋がる。

今や、先達の大きな誤解「OK牧場」を修正すべき時代であるのに「OKコラル」は不当に訳されたままだ。コラルを牧場と呼ぶのは明らかな間違いなのだ。初めて「荒野の決闘」を見て「OK牧場で待っているぞ」という台詞に接した日本人映画ファンは混乱するだろう。どこに牧場があるのか、と。ここを修正する一歩から踏み出さねば「特別版」の意味はない。

MATSUIIIIIIIIIIIIIII!

サンフランシスコになんか行かないでくれえ!

ドジャースへ来てくれ、と言いたいが、もうアンドルーを取っちゃったもんなあ。外野は大混雑だしぃ。


2007/12/07 (金)

善き人のための荒野の決闘。

二年程前に購入した「荒野の決闘」特別編を見た。そこにあることで満足してしまって、改めて見直す必要に迫られなかった作品である。もう既に十何回も見ているし、今さら特別編の「特別」部分を見たところで驚くこともないだろう、というのが二年間のブランクのもっとも大きな理由だ。

心変わりをしたのはBSで「荒野の七人」を見たことと関係しているのかもしれない。これも、「赤い河」や「荒野の決闘」には遠く及ばぬものの好きなウェスタンの一本で、やはり十数回見た記憶がある。ただし、最後に観賞してから十年以上経過しているかもしれない。

見た、とはいうものの、昨今のTV観賞ハビットの延長で、チャンネルをフリップしたら「たまたま」やっていたということだ。だから、見たとはいっても、後半の1時間ほどである。むろん、何回見ても好きなのは前半の人集めであり、メキシコの村人がほとんどハンサム系で英語を流暢に話すというリアリティのなさは充分承知していた。本家の「七人の侍」に比べれば、この村人の生活感の部分で、圧倒的に見劣りすることはわかっていた。それでも好きなウェスタンの一本だったのだ。それが、今回、見事に崩れた。こんな駄作だったのか、と呆れた。

脚本も演出も演技も、すべて二流なのだ。ホルスト・ブッホルツがひょこひょこと敵陣に入り込み情報収集してくるエピソードもお笑いだったが、寝ても醒めてもテンガロンハットかぶりっぱのユル・ブリンナーがどう見ても西部男に見えない。英語も変。のちのち「ウェストワールド」の仇役ロボットガンマンを同じ衣裳で、落ち目のブリンナーはやることになるのだが、そういう運命が至極当然に思えるコミックブックのキャラなのだ。

さらに終盤のアクション設定も無茶苦茶御都合主義。山賊の首領イーライ・ウォラックの信じられないようなあまーい思惑で、囚われた七人は国境近くまで「安全に」護送され、おまけに武器まで返してもらい、最後の対決に五体満足で戻って来る。子供騙しのプロットだよなあ。昔はもう少し説得力があると思ったが。

しかも、戻った七人のガンファイトも、溌溂としているのはスティーヴ・マックィーンだけ。つまり、グループ単位の戦いが極端に少なくて、イージーな個別の戦闘に終始する。しかも、オリジナルと同じく七人のうちの四人が死ぬのだが、このうち三人までが、単独の戦闘の最中にどこから飛んで来たのかわからぬ弾で撃たれて倒れるテイタラク。キャラへの愛情もなにもない。カメラに向かって約束事の断末魔。というわけで「荒野の七人」の存在価値は、今や、スティーヴ・マックィーンの出世作となった、というその一点なのだ。

ジョン・スタージェス監督はこの後、マックィーン主演で「大脱走」を撮っており、これは未だに戦争娯楽映画のクラシックとして栄光の座に君臨している。同じスタージェスでもリチャード・ウィドマークが悪役を演じた「ゴースト・タウンの決斗」は名作の一本。今も色褪せていない。

そんなこもあって、急に「荒野の決闘」にチェックを入れてみる必要を感じたのだ。結論から先に言うなら「荒野の決闘」の輝きはいささかも減じていなかった。なんといってもヘンリー・フォンダのワイアット・アープ像が漂わせるワイルド・ウェストの香華は、ハニーサックルのオーデコロンとともに、名作を磐石のものにしている。おれにとっての究極の映画は「赤い河」だが、究極の西部男はこのヘンリー・フォンダなのだ。歩く姿を見ているだけで泣ける。ましてやフォークダンスや駅馬車ストップでの椅子でのバランシング・アクトなど、神話の領域だ。

さて、この特別編、二枚のディスクから構成されている。ディスク1には97分のオリジナル版が収められ、ディスク2には21世紀になって発見されたという104分の非公開試写版とその復元のポイントを綴ったドキュメンタリー(42分)が入っている。今回観賞したのは、ディスク2の二本である。それで、書き残しておかねばいけない興味深い事象がいくつか出て来た。さらにネットを探って、オールド西部劇ファンのサイトにもたどりつき、この特別編が日本で発売された2004年に様々な論議を引き起こしたことも知った。そういうこともふまえ、西部劇と戦争ものと時代劇で育った監督の目で「荒野の決闘」特別編の意義と問題点を論考しておこう。

問題点のその1は日本語字幕の稚拙さだが、これは西部劇ファン・サイトに見事な指摘があるので一点を除いて省く。

劇場公開版に比べ、字数が少ないのも問題の一環ではあるが、なによりも名作の字幕であるという品性に欠ける。その典型は、クレメンタインとドク・ホリディとの会話にある。大意としては「こんなふうにわたしを追いやるのは間違っているわ。あなたはわたしからも逃げられないし、自分からも逃げられない」というようなふたつのセンテンスからなりたっている台詞がある。字幕ではひとつにまとめて「私からは逃げられないのよ」。クレメンタインが地獄の果てまで男を追い掛ける執念深い女にされてしまっている。おれの記憶では、劇場公開版では、ふたつのセンテンスが訳されていたように思う。いずれにせよ、「追い出すのは間違っている」があって初めて「逃げられない」が生きて来る。

「赤い河」の日本語字幕はもっとひどいものがつけられていたからこれを語り出すときりがなくなる。とにかく、こういった我が名作リストの筆頭に位置する作品が新たな字幕で世に出る場合、監修する用意はいつでもある。改悪字幕版を出すのなら、これは糾弾されるべきだ。おれ個人としてはいつかまとめて欠陥字幕集を出すつもりだ。

今回は問題その2を中心に論考しておこう。

それは42分のドキュメンタリーにある。この「リストレーション」が本来のリストレーションと違うのは、始めから、UCLAフィルムアーカイブも、作業にあたったロバート・ギットも、完全版を目指して7分追加したのではないことを明言している点だ。公式の「荒野の決闘」はダリル・ザナックがハサミを入れた97分であり、104分版は不完全なプレヴュー版である、という視点でドキュメンタリーを結んでいる。

だから、104分はジョン・フォードの編集版であっても通常のディレクターズ・カットとは違う、という見解だ。これは強引すぎる。なにせ、ジョン・フォードは完成以降「荒野の決闘」を「一度も見ていない」と語ったこともあるからだ。いくらザナックに編集を委せて自分が次の作品にとりかかったとはいえ、フォードが97分版に不満を持っていたのは明らかだ。

それ以上に大きな問題は、このプレヴュー版を復元したギットたちの作業には敬意を表するものの、これが「アラビアのロレンス」などのリストレーションと比べ、かなり、独善的なスタイルでなされた点だ。その典型が、「行方不明」のショットに変えて、別のシーンから駅馬車到着をトリミング、および焼きを変えてインサートしたりもしている点だ。これをギットは得意げに話して、その手口を紹介しているのだが、監督の目から見れば「トーシローがお節介な」の一言。ショットの流れが悪くても、そこはあるものだけで処理しておくべきなのだ。それに、酒場の中のチワワと、駅馬車の到着を見ているチワワがジャンプカットで続いていたとしても何もおかしなことはないのだ。その間に敢えて、使いましの駅馬車到着を入れることはない。

それ以上に、ギットの感性を疑ってしまうのが、ラスト近く、トゥームストーンを去るアープが「死んだチワワの部屋を見上げて」とナレーションで解説してしまっているくだりだ。これは取り返しのつかない失策である。

西部劇ファンのサイトでもこのことは話題になっていたようだが、議論の余地はない。アープが見上げたのはクレメンタインの部屋なのだ。ドラマがそれを要求し、演出は本当にわかりやすく、「送りにも来てくれない」クレメンタインを思うアープの心情を綴っている。アープはチワワという、ホリディの女への思い入れなどなにもない。それがここで強調されていたら映画は破綻している。

この稿は夜になってからゆっくりと続けよう。


2007/11/29 (木)

熱烈歓迎!破竹の進軍!序章。

名古屋、大阪、福岡キャンペーンより帰京。各地では熱烈歓迎を受けた。なにしろ最近の邦画大作はメディアの受けが悪いようで合同記者会見では三作連続質問ゼロの「不毛地帯」もあったらしい。我が社はそんな土地でも熱烈歓迎の熱烈質問を受けあふれるばかりの映画愛を感じたのであった。いずれの取材も時間が足りないもっと質問したいよ答えたいよ状態なのであった。

大阪なんばシネマパークスでの試写では300弱のキャパに寄せられた応募数が9000強。堤真一、椎名桔平、田中麗奈が挨拶するとはいえ、通常の3倍以上の記録であったそうな。福岡でも阿部寛との舞台挨拶付き試写への応募が7000。

来てるね来てるね。いいヒキだね。魍魎は化けるとすごいぞ。という感触を関係者一同が得て、なお一層の努力に励むのでした。本日は帰京後2時間で四本の取材を受け、明日は「クラハイ」の初号。クラハイ魍魎魍魎魍魎クラハイP19P19魍魎といった日程が続く。


 a-Nikki 1.02