2008/01/03 (木) 明けた。
■が、しっくり来ない。明けた理由は、十人以上と短時間にあけおめ挨拶をしたので嫌が応でも新年モードとなった。おせちとパエリャを食べる会である。
居住区の人々は相変わらずぶすっとしている。あけおめの挨拶、ゼロ。こんにちわ、とか、お先に、とか、おやすみなさい、とエレベータの乗り降りの都度言っていたと思いなさい。三回続けてシカトーされると仏の顔も三度まで公式になっちゃうでしょう。だから、おれから挨拶する気は失せた。隣近所はそういう環境にある。界隈の道ですれ違う人に声をかけるなどというのはギョっとされるからやらない。つい何年か前までは東京の町中でも正月はあけおめエクスチェンジが結構聞こえてなごやかだった。中央区佃はこれがもうない。高層建築がやたらと建設されて人口が増えるにつれてよそよそしい人間が大挙入って来たということでもある。仏頂面の外国人も多いし。
おせちとパエリャを食べる会はおせちとパエリャとタコスとぴり辛イタリアンひじきを食べる会になった。近隣の声が大きくない仲間たちを中心に集まってもらった。なにせ仕上げがWiiだから。声が低い人たちでも大騒ぎになった。あのいけすかないC字ラケットのトーナメントではおれが最下位だった。初めてゲームに参加した運動神経が底冷えしているような自称19才の女にも負けた。自殺点の応酬で7対7になり、のどかなシュートを空振りしたのだ。プレイヤーはもちろんのこと観戦者も悶え苦しむ白熱のゲームであった。おれは悪夢を見て熱を出した。これはこれで正月らしい。
■それにしても、「魍魎の匣」は全国170館で公開とはいえ、県内一館、回数も限定というところが多くて、大変な努力を払って見に行ってくれる人も多いようだ。それで映写状態が悪い、従業員のマナーも悪いとなったらたまらない。あまりにひどい場合は配給会社に連絡して苦情を言った方が効果的かもしれない。
現実問題として、新しい設備のシネコンが増えたのはいいが、映写状況へのチェックがどれくらいの頻度でなされているのか疑問だ。以前、シネプレックス幸手で「ダヴィンチ・コード」を見たときにピンが甘くなっておれは即座に席を立って従業員に苦情を言った。がテキは「ピンが甘い」という状況を理解するのに時間がかかった。とにかく対処が鈍い。音響チェックなど殆ど「想定外」の話だろう。7月公開の「クライマーズ・ハイ」では、宣伝配給と協力して最高の映画を最高の状態で見てもらう努力をしようと思う。
■「キス」は黒澤オマージュ。原作にはないけどね。
■「ノーカントリー」の原作「血と暴力の国」は映画を見た翌日購入。一点気になっていた部分を確認した。エド・トム・ベルとアントン・シガーの接近遭遇が意味不明瞭だったから。傑作といえど、理解不可能な部分はあるものなのだ。結局、多分こうなんだろうな、と思っていた通りだったが、そのあたり、原作の方が密度は濃い。なぜ映画ではさっと通り過ぎてしまったのかわからない。ま、色々な事情があったんだろうということで。
原作では銃器の描写は細かかったが、川から這い出たジョッシュ・ブロリン演ずるモスがオートマチックのマガジンをイジェクトして薬室の弾丸を排出したのち水気を吹き飛ばしてマガジンを装填、発砲というのはコーエン・ブラザースの見事な演出だった。原作はここまで細かく書き込んでいない。
原作を一歩進めたポイントは他にもある。シガーがモスんちの21インチの「死んだ灰色の画面」に自らの姿を見るところは原作通り。エド・ベルがそののち同じポジションに座って死んだ灰色の画面に映った自らの姿を眺めるところは原作にはない。コーエン・ブラザースの才気。ま、同じ日に撮影しただろうからこういうアイデアが出て来て正解だ。
■ただし、この翻訳はおれ好みではない。あれれという表現が多々あったのでアマゾンでヴィンテージのペーパーバック版を取り寄せチェックした。やはりそうだ。解説してやがる。
コーマック・マッカーシーの文体は独特だ。台詞でカギカッコがない。cantはcant wontはwont wouldntはwouldnt。コンマなしで続けてしまう。地の文はandでえんえんと続ける場合が多い。そういうスタイルなのだ。その辺は無論、翻訳者もわかっていて苦労して日本文にはしている。だが、マッカーシーの嫌っている「解説」を多用しすぎているのだ。
例えば、「車に乗りこんでトレーラーパークの事務所に乗りつけて中に入った。なんでしょう、と女の事務員が言った」というくだりが黒原敏行訳の105ページにある。原文では「女の事務員」などという表現はない。女、だ。これが「解説」なのだ。翻訳の「さじ加減」というやつだろう。決定的に間違っている。
カレ、とかカノジョとか書いているだけなところも、わざわざ人名を取り込んだ解説翻訳になっている。英語の香華はすっぽかしだ。ここは文章全体も流れが悪い。
原文はこうだ。 He drove down and parked in front of the office and went in. Yessir the woman said.
彼は車を走らせ事務所の正面に停めた。なんでしょう、と女がいった。
これではわかりにくいからトレーラーパークとか女の事務員とか足すのだったらマッカーシーの文章は死んでしまう。しかも、「車を走らせ」を「車に乗りこむ」という一歩遅れたアクションに作り直している。マッカーシーの美学ではアクションがどんどん飛ぶ。飛んだ通り追い掛けるのが翻訳者の義務だ。
■ ついでだから導入部とエンディングの文章もしるしておく。
導入部の黒原訳はこうだ。「少年を一人ハンツヴィルのガス室に送りこんだことがある。そんなことは後にも先にもその一人だけだ。おれが逮捕して法廷で証言もした。刑務所へも二、三度面会にいったよ。たしか三度だ。三度目は処刑の日だった。行く義務はなかったが行ったんだ。行きたくはなかったがね。」
本来の出だしはこうだ。 I sent one boy to the gaschamber at Huntsville. One and only one. My arrest and my tesitimony. I went up there and visited with him two or three times. Three times. The last time was the day of his execution. I didnt have to go but I did. I sure didnt want to go.
おれは一人の少年をハンツヴィルのガス室に送り込んだ。たったの一人だけ。おれの逮捕とおれの証言。足を運んでやつと二、三度面会した。三度だ。最後は処刑の日だった。行かなきゃいけないわけじゃないが行った。本当は行きたくなかった。
締めの文章も気がいかない。原文はこうだ。
And in the dream I knew that he was goin on ahead and that he was fixin to make a fire somewhere out there in all that dark and all that cold and I knew that whenever I got there he would be there. And then I woke up.
黒原訳はこうだ。
そしてその夢の中でおれには親父が先に行ってどこか真っ暗な寒い場所で焚火をするつもりでいていつかおれがたどり着いたらそこに親父がいるはずだってことがわかった。そこで眼が醒めたんだ。
おれはこの日本文のイメージが非常に惨めに思え、こんな書き方で小説を終えるはずがない、と断定した。つまり、先に行った親父がまるで「どこか真っ暗な寒い場所」を選んでそこで焚火をして待っているという感覚なのだ。そして、原文を読んで安心して眠りについた。
どう訳すかって?自分でトライしてごらん。おれの訳文は何日かして体調がよくなったら書く。
この翻訳者が最悪というわけではない。ふつう出版元が要求するような「解説」でマッカーシーの文体を汚すことが許されないことを理解すべきなのだ。日本風のノウハウはこういう名作には通用しない。エド・ベルとエリス叔父さんの会話などひどいことになっている。このくだりは「辺境のへそ」なのだが無惨。映画では格調高く綴られ、字幕にも目立つ不備はなかったと記憶している。原作を読むのは映画を見てからにした方がいい。
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