2008/01/09 (水)

汚れなき道。

道。ラ・ストラーダ。翻訳で汚される前に読んでおこうと思いコーマック・マッカーシーのTHE ROADを読み始めた。昨年のピューリッツア賞を受賞した長篇だ。Knopfのハードカヴァーだから読みやすい。最初の晩に40ページほど読み進んだ。次の夜90ページまで進んだ。その次ぎの夜170ページまで行き、一日置いて最後の71ページを読んだ。英語の本をこれだけ集中的に読み続けたのは何年ぶりだろう。ページをめくるはらはら感はトマス・ハリスの「羊たちの沈黙」を発売直後に原書で読んで以来かもしれない。最後の夜は号泣した。

物語は40代とおぼしき「パパ」と10才くらいとおぼしき息子のふたりだけで進められていく。終末戦争後のアメリカとおぼしき荒涼寒冷の大地を親子が南へ向かう。地名も人名もいっさい出て来ない。イーライという名前が使われるがこれも仮の名前だ。主人公の親子は名前も人種も不明。だから、これはジェノサイドの起きたアフリカの大地をさまようウツ族の親子の話であったとしても不思議はない。

繰り返されるのは食糧確保という生存の原点だ。なんの戦争があって文明がいかに滅びたのかという説明は一切ない。マッカーシーは親子の簡潔な会話の中で死への距離感を適確に描写する。魂に火をともして運ぶことの大事を歩き続ける父と子が奏でる。立ち止まると人間の醜悪さに追いつかれてしまうかのように父は移動を続ける。醜悪の具体的な形はカニバリズムだ。

現代社会の犯罪者、犯罪者予備軍はどんな軽い犯罪であってもこの小説の親子が区分けする二種類の人間のうちの片方、BAD GUYSに属すだろうということがわかる。平気でうそをつく人々は平気で人を食べる人々になりうる。

シンプルな展開ゆえにページをめくるごとにふたりの運命を気遣う。どちらが欠けても残されたものは死に行く。死と自分との間にあるのは父にとっては息子だけで、息子にとっては父だけなのだ。見事に無駄を殺ぎ落とした切々たる関係が見える。「28日後」や「アイ・アム・レジェンド」といった昨今の映画と同じアポカリプティック・ワールドでの生存を扱いながらここまで澄み切った人間の営みを描くマッカーシーの才気に感服。それが号泣となった。シンプルでパワフル。しかも物語性のつぼもしっかり押さえている。

映画化の準備も進んでいる。監督はオーストラリアのジョン・ヒルコート。ガイ・ピアーズ、レイ・ウィンストン、ダニー・ヒューストンが主演した「プロポジション」一作で認められた。作品としては脚本に問題のあるアウトバック・ウェスタンだったが演出力には見るべきものがあった。ウィンストン、ヒューストンのキャラは演出との絡みの中で圧倒的な存在感があった。暴力の描写もアクションをチープに見せることを避けて、傷痕や死体のリアリティで突き付ける独自の描写力があった。駄作まがいの映画で演出の力を感ずるのは稀有なことでもある。「ザ・ロード」を映像化する力量は充分備えた監督だ。

主役も原作のイメージにぴったりのヴィーゴ・モーテンセン。問題は脚本だ。マッカーシーのノーマンズ・ランドをいかに色づけしていくのか。「ノーカントリー」でコーエン・ブラザースが見せた脚色の至芸を受け継ぐことができるか。

映画では地名を伏せて描くことはむずかしいし、具体的な親子のロードマップを作り上げねばならない。となるとルックアウト・マウンテンからテキサス南部にかけてのエリアを念頭にロケ地を探すのだろうか。


2008/01/03 (木)

明けた。

が、しっくり来ない。明けた理由は、十人以上と短時間にあけおめ挨拶をしたので嫌が応でも新年モードとなった。おせちとパエリャを食べる会である。

居住区の人々は相変わらずぶすっとしている。あけおめの挨拶、ゼロ。こんにちわ、とか、お先に、とか、おやすみなさい、とエレベータの乗り降りの都度言っていたと思いなさい。三回続けてシカトーされると仏の顔も三度まで公式になっちゃうでしょう。だから、おれから挨拶する気は失せた。隣近所はそういう環境にある。界隈の道ですれ違う人に声をかけるなどというのはギョっとされるからやらない。つい何年か前までは東京の町中でも正月はあけおめエクスチェンジが結構聞こえてなごやかだった。中央区佃はこれがもうない。高層建築がやたらと建設されて人口が増えるにつれてよそよそしい人間が大挙入って来たということでもある。仏頂面の外国人も多いし。

おせちとパエリャを食べる会はおせちとパエリャとタコスとぴり辛イタリアンひじきを食べる会になった。近隣の声が大きくない仲間たちを中心に集まってもらった。なにせ仕上げがWiiだから。声が低い人たちでも大騒ぎになった。あのいけすかないC字ラケットのトーナメントではおれが最下位だった。初めてゲームに参加した運動神経が底冷えしているような自称19才の女にも負けた。自殺点の応酬で7対7になり、のどかなシュートを空振りしたのだ。プレイヤーはもちろんのこと観戦者も悶え苦しむ白熱のゲームであった。おれは悪夢を見て熱を出した。これはこれで正月らしい。

それにしても、「魍魎の匣」は全国170館で公開とはいえ、県内一館、回数も限定というところが多くて、大変な努力を払って見に行ってくれる人も多いようだ。それで映写状態が悪い、従業員のマナーも悪いとなったらたまらない。あまりにひどい場合は配給会社に連絡して苦情を言った方が効果的かもしれない。

現実問題として、新しい設備のシネコンが増えたのはいいが、映写状況へのチェックがどれくらいの頻度でなされているのか疑問だ。以前、シネプレックス幸手で「ダヴィンチ・コード」を見たときにピンが甘くなっておれは即座に席を立って従業員に苦情を言った。がテキは「ピンが甘い」という状況を理解するのに時間がかかった。とにかく対処が鈍い。音響チェックなど殆ど「想定外」の話だろう。7月公開の「クライマーズ・ハイ」では、宣伝配給と協力して最高の映画を最高の状態で見てもらう努力をしようと思う。

「キス」は黒澤オマージュ。原作にはないけどね。

「ノーカントリー」の原作「血と暴力の国」は映画を見た翌日購入。一点気になっていた部分を確認した。エド・トム・ベルとアントン・シガーの接近遭遇が意味不明瞭だったから。傑作といえど、理解不可能な部分はあるものなのだ。結局、多分こうなんだろうな、と思っていた通りだったが、そのあたり、原作の方が密度は濃い。なぜ映画ではさっと通り過ぎてしまったのかわからない。ま、色々な事情があったんだろうということで。

原作では銃器の描写は細かかったが、川から這い出たジョッシュ・ブロリン演ずるモスがオートマチックのマガジンをイジェクトして薬室の弾丸を排出したのち水気を吹き飛ばしてマガジンを装填、発砲というのはコーエン・ブラザースの見事な演出だった。原作はここまで細かく書き込んでいない。

原作を一歩進めたポイントは他にもある。シガーがモスんちの21インチの「死んだ灰色の画面」に自らの姿を見るところは原作通り。エド・ベルがそののち同じポジションに座って死んだ灰色の画面に映った自らの姿を眺めるところは原作にはない。コーエン・ブラザースの才気。ま、同じ日に撮影しただろうからこういうアイデアが出て来て正解だ。

ただし、この翻訳はおれ好みではない。あれれという表現が多々あったのでアマゾンでヴィンテージのペーパーバック版を取り寄せチェックした。やはりそうだ。解説してやがる。

コーマック・マッカーシーの文体は独特だ。台詞でカギカッコがない。cantはcant wontはwont wouldntはwouldnt。コンマなしで続けてしまう。地の文はandでえんえんと続ける場合が多い。そういうスタイルなのだ。その辺は無論、翻訳者もわかっていて苦労して日本文にはしている。だが、マッカーシーの嫌っている「解説」を多用しすぎているのだ。

例えば、「車に乗りこんでトレーラーパークの事務所に乗りつけて中に入った。なんでしょう、と女の事務員が言った」というくだりが黒原敏行訳の105ページにある。原文では「女の事務員」などという表現はない。女、だ。これが「解説」なのだ。翻訳の「さじ加減」というやつだろう。決定的に間違っている。

カレ、とかカノジョとか書いているだけなところも、わざわざ人名を取り込んだ解説翻訳になっている。英語の香華はすっぽかしだ。ここは文章全体も流れが悪い。

原文はこうだ。
He drove down and parked in front of the office and went in. Yessir the woman said.

彼は車を走らせ事務所の正面に停めた。なんでしょう、と女がいった。

これではわかりにくいからトレーラーパークとか女の事務員とか足すのだったらマッカーシーの文章は死んでしまう。しかも、「車を走らせ」を「車に乗りこむ」という一歩遅れたアクションに作り直している。マッカーシーの美学ではアクションがどんどん飛ぶ。飛んだ通り追い掛けるのが翻訳者の義務だ。


ついでだから導入部とエンディングの文章もしるしておく。

導入部の黒原訳はこうだ。「少年を一人ハンツヴィルのガス室に送りこんだことがある。そんなことは後にも先にもその一人だけだ。おれが逮捕して法廷で証言もした。刑務所へも二、三度面会にいったよ。たしか三度だ。三度目は処刑の日だった。行く義務はなかったが行ったんだ。行きたくはなかったがね。」

本来の出だしはこうだ。 
I sent one boy to the gaschamber at Huntsville. One and only one. My arrest and my tesitimony. I went up there and visited with him two or three times. Three times. The last time was the day of his execution. I didnt have to go but I did. I sure didnt want to go.

おれは一人の少年をハンツヴィルのガス室に送り込んだ。たったの一人だけ。おれの逮捕とおれの証言。足を運んでやつと二、三度面会した。三度だ。最後は処刑の日だった。行かなきゃいけないわけじゃないが行った。本当は行きたくなかった。

締めの文章も気がいかない。原文はこうだ。

And in the dream I knew that he was goin on ahead and that he was fixin to make a fire somewhere out there in all that dark and all that cold and I knew that whenever I got there he would be there. And then I woke up.

黒原訳はこうだ。

そしてその夢の中でおれには親父が先に行ってどこか真っ暗な寒い場所で焚火をするつもりでいていつかおれがたどり着いたらそこに親父がいるはずだってことがわかった。そこで眼が醒めたんだ。

おれはこの日本文のイメージが非常に惨めに思え、こんな書き方で小説を終えるはずがない、と断定した。つまり、先に行った親父がまるで「どこか真っ暗な寒い場所」を選んでそこで焚火をして待っているという感覚なのだ。そして、原文を読んで安心して眠りについた。

どう訳すかって?自分でトライしてごらん。おれの訳文は何日かして体調がよくなったら書く。

この翻訳者が最悪というわけではない。ふつう出版元が要求するような「解説」でマッカーシーの文体を汚すことが許されないことを理解すべきなのだ。日本風のノウハウはこういう名作には通用しない。エド・ベルとエリス叔父さんの会話などひどいことになっている。このくだりは「辺境のへそ」なのだが無惨。映画では格調高く綴られ、字幕にも目立つ不備はなかったと記憶している。原作を読むのは映画を見てからにした方がいい。


2008/01/01 (火)

新らしい年は明けているか?

なんだか元旦ぽくないなあ。なぜそう感じてしまうのか。「魍魎の匣」の公開が年をまたいだせいか。「クライマーズ・ハイ」が継続しているせいか。それとも単純におれがじじいになったからか。迫り来る60代を怖れているのはたしかだ。目の廻りの筋肉がだらんとしている感じがする。気合いをこめないと目がぱっちり開かない。目をこらしても視野のピントがびしっと来ない。一日運動しないと関節がぎしぎしいう。

いや、ちがう。それ以上になにか決定的なものがある。元旦ではないと感じさせるなにかが。

パキスタンでブット元首相が暗殺された。メディアが口を噤んでいることがある。911との関わりだ。つまり、911にはパキスタンが深く絡んでいる。ISI。CIAともアルカイーダとも繋がる組織。デーヴィッド・レイ・グリフィンが総括した911陰謀説の主要なプレイヤーたちだ。メディアの前で起こった暗殺劇でも真実が歪められている。911の真実も未だに見えて来ない。グリフィンの「911事件は謀略か」を読んでいる最中にブット元首相が殺されたので余計に気にかかる。911は謀略だ、と今は信ずる。なんだかアメリカが「赤狩り」のころに逆行しているような気分だ。理性がさるぐつわを噛ませられている。国家の犯罪が横行している。

911陰謀説を唱える人と日航機123便墜落を「謀略」と捕らえる人にはいくつかの共通項がある。どちらの事件も、謀略でなければ信じがたいシステムの不具合もしくは無能が介在しているのにその無能を裁かれた責任者はいない。

何かははっきり見えないが、このふたつの事件にはもっと共通していることがあるような気もする。

とりあえずは「911事件は謀略か」を一読することを薦める。翻訳はかなり直訳調で読み進むのがつらい部分も多々あるが、グリフィンのまとめかたは深みがある。TV番組でちょっとだけかじったこともあったようだが、活字で読む方がグリフィンたちの理性といったものに心を揺さぶられる。

世界がこんな具合だから元旦ぽくないのかなあ。


2007/12/29 (土)

正当ではない狂気。

人から聞いた話。新幹線で売り子が廻って来た。柿の種ください、と言ったら「ありません」と言われた。見ると柿ピーがある。「あるじゃないの」と言ったら「あ、これ、柿ピーです」と意外な顔をされた。「じゃあそれでいいからいくつあるの?」と乗客は聞いた。売り子は「そんなのわかりません」といささか鼻白んで答えた。乗客もむかっとして「いくつあるかぐらい見ればわかるんじゃない?」と応じた。売り子はぴりぴりした様子で「袋の中に何個入っているかなんて数えてみなければわかりません!」と啖呵を切ったそうな。

マジで。

好意的に解釈すれば訓練期間中にこういう想定問答集がなかったんだろうね。考える、ということを放棄したケータイ・ネット依存症世代は、マニュアルがないとどんどん非常識という「狂気」に突っ走る。むろん、自分では壊れているとは思っていない。廻りに壊れている人間が大勢いるから。政治家だって壊れているし老舗の経営者だって壊れている。

そういう人間が「魍魎の匣」を見たら何が起こるか。袋の中、いや、匣の中の柿ピーを数えはじめるだろうね。

夜型生活を送り、自己中心的でパニックに陥りやすく粗暴で基本的なしつけというものとは縁遠い小学生が増えていると最初に報告されたのはいつのころだったろうか。ケータイ・ネット自閉症人類の大多数はこういった幼児期を過ごしていることは統計的に証明されているらしい。このテアイに「魍魎の匣」は到底理解できない。1分に1回の小チャレンジ、5分に1回の大チャレンジといった「日本映画」という枠組みの中では類例のない試みがなされているからだ。映画は発見の愉しみである、という基本線の「発見」というコンセプトを理解せず、だれがなにを「発見」しているのかを読んで聞いてTVバラエティショーレベルで字幕付きで何回も解説されて始めて「発見のサービスをしてくれた。御苦労」という納得の仕方をするからだ。

Take a walk to Bagdad.

ヴァーチャル多重人格のテアイの書く「酷評」というのは酷評になっていない。プロの映画評論家の酷評でも作り手にとってどこまで酷評になりうるかという命題を先ず理解しなくてはいけない。作り手をどきりとさせる酷評を書くためには最低でもその作品の背景、技術面をおさえていなければ無理だからだ。

それよりもなによりも、「新潟市民」さんや「塩野」さんのこういった感想や観客の拍手がもたらす「力強さ」の前に「酷評」や「罵声」は無力なのだ。

二日前、「クライマーズ・ハイ」の宣伝戦略打ち合わせが西麻布であった。その少し前に六本木の本屋を覗いた。青山ブックセンターだ。映画関係以外は趣味のいい書籍を揃えている店だ。映画関係がだめなのはなぜかおれの著書に偏見があるらしく、今まで一度も置かれているのを見たことがない。むろん、「原田眞人の監督術」も置いていない。そういうハコはこの場合どうでもいい。ポイントは来ていた客との偶然の出会いだ。

奥の本棚を眺めていると「原田さんですか?」という控えめな声が聞こえた。頷くと「昨日、『魍魎の匣』を見ました」と言い、「小学生のころ」と言い始めたので「ガンヘッド」を見てファンになったのかと一瞬思ったら「『盗写250分の1秒』を見て以来の大ファンです」と来た。意表をつかれたおれは思わず「そいつはすごい」と声を上げた。

こういうファンがひとりいると監督たるもの百万回の罵声を聞き流すことができる。

こういう小学生時代を過ごした映画人が増えれば日本の映画界もこの泥沼から脱出できる。

「正当なる狂気」。カウボーイ探偵C・W・シュグルーを主人公にしたジェームス・クラムリーの新作である。本国では2005年に出版されている。大病というか、アルコールとたばこで体を壊し精神のバランスまで壊したのち、友人たちの力で再起したと思しき一作だ。

帯には「最上のクラムリ−作品にまちがいない」といったワシントン・ポストの褒め言葉まで載っている。

読めば読むほど「クラムリーの残骸」を感じてしまうのはおれだけだろうか。

翻訳を通しても文章のひどさにはのっけから気付く。どうでもいいことをちまちま書き綴ってプロットが進まない。キャラクターが呼吸をしていない。登場人物すべてに魅力がない。会話に味がない。混乱している。書くモーティベーションを失った作家がムリヤリかつての「作家であった自分」を取り戻そうとあがいている様子しか見えて来ない。「酔いどれの誇り」、「さらば甘き口づけ」、「ダンシング・ベア」に熱狂した自分が遠く感じられる。翻訳の文体にも抵抗はあったが、問題はクラムリー自身の書いたものにある。

翻訳で唯一問題があるとすれば「訳者あとがき」だ。347ページの「ドジャースのカーク・ギブソン」のくだり。「ちなみにここに出て来る投手の正解はアレハンドロ・ペニャ」とあるのだが、正解はデニス・エカースリーである。こんなのはメージャーリーグ・ファンにとっては常識中の常識だ。アレハンドロ・ペーニャ(ペニャとは発音しない)はこのゲームのころはドジャースのリリーフ投手だった。


2007/12/29 (土)

正当ではない狂気。

人から聞いた話。新幹線で売り子が廻って来た。柿の種ください、と言ったら「ありません」と言われた。見ると柿ピーがある。「あるじゃないの」と言ったら「あ、これ、柿ピーです」と意外な顔をされた。「じゃあそれでいいからいくつあるの?」と乗客は聞いた。売り子は「そんなのわかりません」といささか鼻白んで答えた。乗客もむかっとして「いくつあるかぐらい見ればわかるんじゃない?」と応じた。売り子はぴりぴりした様子で「袋の中に何個入っているかなんて数えてみなければわかりません!」と啖呵を切ったそうな。

マジで。

好意的に解釈すれば訓練期間中にこういう想定問答集がなかったんだろうね。考える、ということを放棄したケータイ・ネット依存症世代は、マニュアルがないとどんどん非常識という「狂気」に突っ走る。むろん、自分では壊れているとは思っていない。廻りに壊れている人間が大勢いるから。政治家だって壊れているし老舗の経営者だって壊れている。

そういう人間が「魍魎の匣」を見たら何が起こるか。袋の中、いや、匣の中の柿ピーを数えはじめるだろうね。

夜型生活を送り、自己中心的でパニックに陥りやすく粗暴で基本的なしつけというものとは縁遠い小学生が増えていると最初に報告されたのはいつのころだったろうか。ケータイ・ネット自閉症人類の大多数はこういった幼児期を過ごしていることは統計的に証明されているらしい。このテアイに「魍魎の匣」は到底理解できない。1分に1回の小チャレンジ、5分に1回の大チャレンジといった「日本映画」という枠組みの中では類例のない試みがなされているからだ。映画は発見の愉しみである、という基本線の「発見」というコンセプトを理解せず、だれがなにを「発見」しているのかを読んで聞いてTVバラエティショーレベルで字幕付きで何回も解説されて始めて「発見のサービスをしてくれた。御苦労」という納得の仕方をするからだ。

Take a walk to Bagdad.

ヴァーチャル多重人格のテアイの書く「酷評」というのは酷評になっていない。プロの映画評論家の酷評でも作り手にとってどこまで酷評になりうるかという命題を先ず理解しなくてはいけない。作り手をどきりとさせる酷評を書くためには最低でもその作品の背景、技術面をおさえていなければ無理だからだ。

それよりもなによりも、「新潟市民」さんや「塩野」さんのこういった感想や観客の拍手がもたらす「力強さ」の前に「酷評」や「罵声」は無力なのだ。

二日前、「クライマーズ・ハイ」の宣伝戦略打ち合わせが西麻布であった。その少し前に六本木の本屋を覗いた。青山ブックセンターだ。映画関係以外は趣味のいい書籍を揃えている店だ。映画関係がだめなのはなぜかおれの著書に偏見があるらしく、今まで一度も置かれているのを見たことがない。むろん、「原田眞人の監督術」も置いていない。そういうハコはこの場合どうでもいい。ポイントは来ていた客との偶然の出会いだ。

奥の本棚を眺めていると「原田さんですか?」という控えめな声が聞こえた。頷くと「昨日、『魍魎の匣』を見ました」と言い、「小学生のころ」と言い始めたので「ガンヘッド」を見てファンになったのかと一瞬思ったら「『盗写250分の1秒』を見て以来の大ファンです」と来た。意表をつかれたおれは思わず「そいつはすごい」と声を上げた。

こういうファンがひとりいると監督たるもの百万回の罵声を聞き流すことができる。

こういう小学生時代を過ごした映画人が増えれば日本の映画界もこの泥沼から脱出できる。

「正当なる狂気」。カウボーイ探偵C・W・シュグルーを主人公にしたジェームス・クラムリーの新作である。本国では2005年に出版されている。大病というか、アルコールとたばこで体を壊し精神のバランスまで壊したのち、友人たちの力で再起したと思しき一作だ。

帯には「最上のクラムリ−作品にまちがいない」といったワシントン・ポストの褒め言葉まで載っている。

読めば読むほど「クラムリーの残骸」を感じてしまうのはおれだけだろうか。

翻訳を通しても文章のひどさにはのっけから気付く。どうでもいいことをちまちま書き綴ってプロットが進まない。キャラクターが呼吸をしていない。登場人物すべてに魅力がない。会話に味がない。混乱している。書くモーティベーションを失った作家がムリヤリかつての「作家であった自分」を取り戻そうとあがいている様子しか見えて来ない。「酔いどれの誇り」、「さらば甘き口づけ」、「ダンシング・ベア」に熱狂した自分が遠く感じられる。翻訳の文体にも抵抗はあったが、問題はクラムリー自身の書いたものにある。

翻訳で唯一問題があるとすれば「訳者あとがき」だ。347ページの「ドジャースのカーク・ギブソン」のくだり。「ちなみにここに出て来る投手の正解はアレハンドロ・ペニャ」とあるのだが、正解はデニス・エカースリーである。こんなのはメージャーリーグ・ファンにとっては常識中の常識だ。アレハンドロ・ペーニャ(ペニャとは発音しない)はこのゲームのころはドジャースのリリーフ投手だった。


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