2019/08/03 (土)

6月以降の採点表、または「落ちた偶像事件簿」の2。


7/15 「新聞記者」。最大の魅力はヒロイン、シム・ウンギョンと今村圭佑のカメラ。ウンギョンの仕草、表情がいい。彼女はニュアンスの芝居を知っている。小さな役ながら本田翼が自然ないい味を出している。彼女もまたニュアンスの芝居がいい。

こんな内閣を抱えているとここまでひどいことになるよ、という警告のプロットラインはとてもよい。が、セリフが稚拙。むきだし解説のセリフが頻繁に出て来る。殊に、ウンギョンの背景を語るための外国人ジャーナリストとの会話はひどすぎる。ジャーナリストはこんな喋り方はしない。日本人の記者群も、存在感で誤摩化せる北村有起哉以外全滅。内閣調査室も田中哲司の演技を筆頭にカリカチュアライズされて単調。飽きる。桃李はいいのだが、真っ当過ぎてウンギョンほどに面白くない。一言セリフのキャストはすべてお粗末。勿体ない。カメラワークは、私が好きなアプローチ。ある程度は監督の映像センスに寄与するとしても、9割は撮影監督の功績のように思う。スコア:A-。



7/17 「プライヴェート・ウォー」。これも演技、映像がAクラスで脚本がBクラス。とはいえ、中盤、ヒロインが戦場ジャーナリスト特有のPTSDに悩まされるくだりで鮮烈な映像たりえていない。フラッシュされる戦場取材光景が当たり前の「記憶のフラッシュ」で、ロザムンド・パイクの芝居が空回りしてしまう。正直、この中盤はダレた。

ヘヴィスモーカーのマリー・コルヴィンを絵に描いたようなヘヴィスモーカーにしている点もうんざり。それに輪をかけた失態がヒロインの愛人関係。複数いた人物をひとりに集約したというスタンリー・トゥッチの役が実にお粗末。しかし、前半と終盤のロザムンドは見事だし作品的にも見応えがある。字幕はメリー表記になっているが、MARIEは日本語表記ではマリーとし、MARYのメリーもしくはメアリーと区別すべきだと、私は思っているのでそこにも違和感があった。スコア:B+。



7/18 「ザ・ファブル」 岡田三成歳三准一様のアクションを確認したくて見に行ったのだが、やはりそこは超一流だった。演ずる方もコレオグラフも。クライマックスのアクションの密度の濃さもなかなかのものだ。江口カンは、カンヌ受賞のCMもよかったが、王道をゆく映画監督になるのではないだろうか。競輪映画は前半の演技映像だけがよくて、後半の筋立てで失敗していたが。

原作にあるから、というのでソー入したと思われる木村文乃の飲み比べは映画では蛇足だし、意味不明。六角精児のいるバー自体、大阪方面ではない筈なのに(プロローグのイメージでは)大阪のエピソードで出て来るのは何故?もともと大阪エピソードとして撮ったシーンを、導入部の文乃の印象が薄いからと、ファブルのオープニング殺しとカットバックさせたとしたら愚かだね。

岡田様のコミカルな味は昔から好きだったので今回も大笑いした。安田顕も適材適所。渋くていい。それ以上に、だれこれ?天才的にうまいじゃん、と見惚れたのが、意外や意外の柳楽優弥。デビュー作以外まったく買っていなかったが、この化け方=成長はすごい。コミック型の大芝居でもない。ひとつひとつのシーンの微妙なニュアンスが見事。素晴らしい役者になった。スコア:B+。



7/23 「荒野の誓い」 だらだらウェスタンの極み。最初の10分は味があると思ったが、マイナーな登場人物が殆どすべてじっくり考えて大したことのない一言を発する。この間に私は殺された。

スコット・クーパーは「ブラック・スキャンダル」を見た時にも思ったが才能ナシ。自身が売れない俳優であったゆえ、やたらと俳優の生理を前面に押し出す。そのくせ、ティモシー・シャラメをフランス人兵士役で使い、「なんで経験不足力量不足貫禄不足の私が護衛隊に選抜されたんでしょう?」などというセリフを吐かせ、その10分後には簡単に殺してしまう。いくら「君の名前で僕を呼んで」公開の前であったとはいえ、業界内での彼の評価が上昇中ということはわかっていた筈だ。しっかりと使う当てがなければ配役するな、と言いたい。クリスチャン・ベイルはいい味を出していても、脚本監督がここまで愚鈍だとどうにもならない。

先住民と白人の対等なる描写はジョン・フォードの「アパッチ砦」、「リオ・グランデの砦」以来、何本かある。この作品が初めて踏み込んだ領域ではない。むしろ、あまりにも通俗的な先住民描写に唖然としたほどだ。唯一の救いは、サイラス・ラウンドを演じた我が友スコット・ウィルソンと会えたこと。これがスコットの最後の映画出演作となった。享年76才。まだまだ生きて欲しかった。私の作る最初のウェスタンに出て欲しかった。スコア:C。

寸評のつもりが長くなってしまった。究極の落ちた偶像は、「DOGMAN」、「OLIVE KITTERIDGE」、「われらが背きし者」、「ライ麦畑の反逆児」を経なければ到達できない。きょうは疲れた。次回に譲ろう。


2019/08/02 (金)

6月以降の採点表、または「落ちた偶像事件簿」の1。


6/10 「ピータールー」。落ちた偶像その1は、マイク・リーの絶対的なワースト1。ここまで落ちるかマイク・リー。私にはその意味で衝撃の一本。役者たちが揃って魅力のないオーヴァーアクトの演説映画。ロリー・キニアが特にひどい。ジャイアンツの原監督かサッカーの松木解説者かニュースウォッチ9の有馬アナかといった力みのへの字口。うんざり。どうでもいいことだが、昨今、ピリオド代わりのへの字口でスピーチを結ぶアナウンサーが増えた。演技者には禁忌の「への字口終わり」を当たり前のように連発する三流アナが、私は苦手だ。その筆頭が有馬アナ。欧米のアンカーでこの手の輩はいない。スコア:C。

6/23 「足音はかき消して」。トマシーン・ハーフォード・マッケンジーが初々しく切ない。デブラ・グリニクは「ウィンターズ・ボーン」で10代のジェニファー・ローレンスをライジング・スターとしたが、こちらの10代トマシーンにもその要素あり。作品自体は誠実だが単調。スコア:A-。

6/27 「犬ガ島」。ウェス・アンダーソンの異才に脱帽。オノ・ヨーコ、ケン・ワタナベを含む声のキャストの多彩さにも感心。主人公アタリの声のコーヨー・ランキンが新鮮でよい。バイリンガルのカナディアン・ジャパニーズ少年。成長が愉しみ。スコア:A-。



7/1 「COLD WARあの歌、2つの心」。見始めて15分、私はこの傑作がなぜカンヌのコンペで「万引き家族」に負けたのか理解できなかった。川の流れに身を委ねてヒロイン、ズーラ(ヨアンナ・クーリグ)が歌うくだりの美しさに涙がこぼれ落ちた。というか、そこから30分、涙涙涙の大傑作だった。

その感動が、ユーゴでのマグレブ舞踏団のエピソードを最後に泡と消え、映画はあれよあれよという間に、熱海の海岸、散歩する貫一、お宮のメロメロメロドラマ「金色夜叉」に堕して行く。

前半の民族音楽オンパレードは完璧。ジャズに退廃を託したヴィクトール(トマシュ・コット)の「落魄の巴里」が幼く雑。ジャズですべてが代弁できるわけではない。トマシュの演技が、冷戦の国では機能したのに、自由な巴里ではコチコチに堅い。錚々たるフランス演技陣で周囲を固めても、通俗メロドラマの筋立てはごまかせない。しかもラストは無責任なる「失楽園」。

セリフで多くを言わせないパヴェウの限界は「ふたりのイーダ」でも感じたが、ここではそれが致命的な罪に思える。これでは「万引き家族」に負けて当然。完璧なる前半を称え監督賞で十分と、納得してしまった。役としては後半の混沌が勿体ないが、ズーラを演ずるヨアンナ・クーリグはずば抜けてよい。スコア:A。



ところで、COLD WARに翻弄される男女のドラマといえば、2013年以来、アメリカで大きな評価を受けたTVシリーズ「THE AMERICANS」があるではないか。
過日、シーズン1のエピソード1というかパイロットを見てとても感銘を受けた。

ドラマの幕開けは1981年のレーガン・エラ。ケリ・ラッセルとマシュー・リース演ずる主役カップルがロシアの諜報員で、1965年にアメリカに送り込まれ、以来、夫婦として家庭を築き、二人の子供を作り、ワシントンDC郊外でアッパーミドルクラスの生活に溶け込んでいる。当然、子供たちは両親がプランツ=「里入り忍」であることを知らない。

プロローグは、セックススパイとしての教育も受けたケリが司法省の高官から色仕掛けで情報を仕入れるくだりを「卓越したおフェラ」の描写から入るのだから立派。(日本のTVドラマがいかに幼稚で旧態依然であることか、と考えてしまった。アメリカのTVシリーズは「ソプラノ」登場の前後から画期的に面白くなったと思う)。そして夫婦共同作業の殺人と対立も描かれる。つまり、旦那のマシューはアメリカへの寝返りも辞さないソフト路線、ケリは祖国への愛国心優先のハード路線という区分け。


さらに、「作劇上必要な」偶然から、隣人としてFBIエージェントの一家が引っ越して来る。このエージェントを演ずるのが監督作も多々あるインテリ俳優ノア・バウムバック。白人至上主義の組織にアンダーカヴァーとして3年潜入していたから「里入り忍」の血が流れているという設定。このユニークでドラマティックな設定かつ異なった視点でのレーガン時代の検証というインテリジェンスも話題になり、2018年まで6シーズン続く人気シリーズとなっている。

さらにすごいのはこの6年の流れを通じ、子役のふたりの成長と、家族内の波乱までドラマに組み込んで行っている視点だ。ケリ、マシュー、ノア、子役2は6年間75話のすべてに登場しているらしい。幾重にも張り巡らされたアンビヴァレンス。これぞCOLD WARの大傑作ではないか。

とはいうものの、6シーズン75話を見るほどの時間的余裕も体力も私にはない。おそらく、この「1の1」だけで、私の「ジ・アメリカン」は終わることになるだろう。何せ、「24」も「LOST」も乗り遅れて、見る気が失せた私ゆえ。勝負権があるのはせいぜいシーズン2までのリミテッド・シリーズにほぼ限定される。今は、エイミー・アダムス主演の「SHARP OBJECTS」、ニコラス・ウィンディング・レフン演出の「TOO OLD TO DIE YOUNG」、両ミニシリーズのシーズン1に取り組もうかどうか迷っている最中。



7/8 「誰もがそれを知っている」 アスガー・ファルハディがハヴィア・バルデム、ペネロペ・クルース、リカルド・ダリンというスペイン語圏の大スターを迎えて作ったカンヌ・オープニングのこの作品が、なんで無冠だったのか、私には疑問だった。導入部の結婚式の見事な演出と映像構成に酔い、その疑問はさらに高まった。しかし、である。事件が起きた途端に映画は機能しなくなった。

アスガーの最高傑作は「別離」(A+)である。あの作品には大クロサワの「生きものの記録」と「羅生門」の影がちらつく。今度は、少しだけ「天国と地獄」が匂う。大きな差異は、「別離」がキャラクターを立ち上げて書かれた脚本であるのに比べ、こちらはバルデム、ペネロペ主役ありきで構想され書かれた脚本である点だ。

とにかく、脚本がお粗末。結婚式の高揚感の中で、それも停電やら大雨やらの不測の事態がらみで機能していた人々が、ドラマが始まるとキャラクターとしての平板さを露出していく。

アスガーは「別離」までの三作品で一作毎に進化した。「FIREWORKS WEDNESDAY」(A-)は瑞々しく、「彼女が消えた浜辺」(A)はほぼ「別離」のレヴェルに近い名作。以降、故国で撮った「セールスマン」(A-)でFIREWORKSのレヴェルまで戻したものの、ヨーロッパで撮った2本はいずれも失敗作だ。「別離」に至る道筋で顕著だった精緻なプロットと豊かなキャラクターの交差点が霧に覆われ、見えなくなっている。才能が枯渇したとは思わないが、取りあえずは落ちた偶像その2である。スコア:B。



次回は究極の「落ちた偶像」を論ずる。この作品のひどさは言語道断。この監督の堕落は、ワールドシリーズ制覇したチームが翌年100ゲーム以上負けて最下位に落ちるようなものだ。GUESS WHO!


2019/08/01 (木)

リミテッド・シリーズの光と影。


エミー賞のカテゴリーで言えば、先日触れた「チェルノブイリ」も「ESCAPE AT DANNEMORA」もLIMITED SERIESということで双方ともに第71回エミー賞の作品賞、監督賞などで大量ノミネートされた。(発表は9月)

残念だったのは「リトル・ドラマー・ガール」が評価されなかったこと。こちらは、主演トリオのフローレンス・ピュー、アレキサンダー・スカルスガルド、マイケル・シャノンが素晴らしかった。ダイアン・キートンが1980年代に主演した映画化作品は、当時の名匠ジョージ・ロイ・ヒルが演出したにも関わらず失敗作だった。理由は簡単。原作の、濃密な「恋の嘘ビルドアップ」にあたる前半を大幅にカットしてしまったせいで、ヒロインの嘘つき女優チャーリーとモサド・エージェントの「陰謀に翻弄される恋」の切なさが消えたから。

今回は、70年代のカラフル・キンキーな世界をパク・チャヌクが作り上げ、マイケル・レスリーの脚本が、濃密緻密に男女の心の揺れを紡いでいる。



フローレンスは、美形というよりはずんぐりむっくりの頑丈形なのだが、芝居は圧倒的にうまい。役の内側からヒロインの魅力を醸し出すことに成功している。最初はタイプじゃねーなあ、と思っていたのが、第二話の終わりまでには完全に彼女の虜になってしまった。

アレキサンダーは、セクシーで繊細。ニュアンスの芝居のマスターだ。このふたりのケミストリーが最高級。そこにモサド版のジョージ・スマイリーといったテロリスト掃討作戦リーダーのマイケル・シャノンが、イスラエル訛りのヘヴィな英語でからむ。極上のスパイスリラーだ。パレスチナ側もしっかりとしたスタンスで綴られ、ジョン・ル・カレの綱渡り世界を完璧に映像化している。英語でのコミュニケーション力に不安なチャヌクが連れて来た韓国勢のカメラと音楽も上質だった。

こうやって一人の監督が請け負うミニシリーズ、リミテッド・シリーズが近年増えている。前記した「チェルノブイリ」、「ダネモラ脱獄」もそうだし、2017
年のHBO人気シリーズ「ビッグ・リトル・ライズ SEASON 1」もそうだ。ただし、シリーズ作品の「神」はCREATED BYのクレジットをもらう脚本家兼プロデューサーであることは前回書いた。ゆえに、シリーズ全体を請け負う個性派監督とのトラブルも多々起きている。私が大絶賛した「TRUE DETECTIVE SEASON 1」も、クリエイターのニック・ピゾラットとシリーズ監督のケイリー・ジョージ・フクナガが衝突をしたらしい。こういうときに役者はどっちの側でもの申したのか気になるところだ。



「ビッグ・リトル・ライズ」(以下BLL)のシーズン1では、クリエイターのデーヴィッド・ケリーとシリーズ監督ジャン・マルク・ヴァレの関係は良好だったらしい。といっても、この作品の魅力は「妻たちの仁義なき戦い」であって、女優陣の意気込みがすべてを席巻していた。

原作はオーストラリアの女流作家リーアン・モリアーティ。舞台もシドニー近郊。そこに居をかまえるニコール・キッドマンが原作に惚れ込み、第一ヒロイン役にリース・ウィザースプーンを口説き落としたところからこの企画はスタートしたようだ。

設定をカリフォルニア州モントレーの高級住宅地に変更したのはHBOが製作母体であれば当然の成り行き。ビッグ・サーからモントレーに至る海岸線は「めまい」を筆頭に、女と男の戦い/駆け引きを綴った上質なドラマの背景として華麗なる歴史がある。



問題は、シーズン2だ。私が夢中になったHBOのヒットシリーズ「THE LEFTOVERS」のように、原作をシーズン1で使い尽くした場合、シーズン2はクリエイターが原作者の知恵を借りて、完結した登場人物の「それからのドラマ」を新たに構築することになる。「レフトオーヴァーズ2」はシーズン1の質を踏襲できなかったが「BLL2」はどうなることか。

「BLL2」は、連帯を深めた女たちの驚異となるモンスター・ママを新たに作り出し、この役をメリル・ストリープが演ずることになって俄然話題は盛り上がった。シリーズ監督には、女流監督の中では私がピカイチと確信する英国のアンドレア・アーノルドを選んだ。となれば、シーズン1と同等もしくは、それ以上の作品になるに違いないと、私の胸は高鳴った。

が、全米での放映開始直前、インディワイアがトラブルをすっぱ抜いた。クリエイターのケリーが、アーノルド演出に不満を唱え、HBOがこれに同調。編集済みの「BLL2」をシーズン1の監督だったヴァレに預け、再編集やら取り直しやらでアーノルドのタッチを薄めてしまったというのだ。

アーノルドの演出は「フィッシュ・タンク」に代表されるように、セミドキュメンタリー・スタイルのナチュラルな、時に即興を盛り込んだ会話が真骨頂だ。演者の感性を記録するスタイルでもある。それをケリーが嫌って、そつのない演出スタイルのヴァレに委ねたということらしい。



これはとても不思議だ。ケリーにしろ、HBOにしろ、アーノルドのスタイルを承知して作品を預けたフシがある。アーノルド側に、事前の「御法度メモ」も伝えられてはいなかった。いわば、だまし討ちのような形で最終編集権をタテに作品を「作り変えた」わけだ。そこには、女性蔑視の影もちらつく、とメディアは伝える。

女たちのドラマを男が脚色して女が監督した。しかし、書いた男は女の演出に満足せず顔見知りの男に「修正」させた。としたら、もっとも気になるのは女優たちの立ち位置だ。同じ女性としてアーノルド版を擁護する声をあげてもいいのだが、誰も何も言っていないまま放映開始となり、第一回はストリープの名演が話題になって盛り上がった。しかし、その後、回を追うごとに、支持率は下がっている。話が錯綜し過ぎている、という声も聞く。

いずれにせよ、私はアンドレア・アーノルド演出のシーズン2を期待していたわけで、この騒ぎで興味は半分失せた。原作から離れた「それからのドラマ」が辿る運命は「レフトオーヴァース2」が証明している。原作の残りかすを使ったそこそこの料理しか出せないことはわかっている。よき変化があるとしたら、新しき血である。「無難な」ヴァレを呼び寄せたのは、ケリーとHBOのムダなあがきに思えて仕方がない。


2019/07/30 (火)

7月を生きる。

冒頭部分が7/11の末尾に入ってしまった。ボケたか。でも面倒だな。修正せず、このまま続けます。

強引に気分転換してMLB。

きょうは朝から、ベリンジャーが9試合ぶりにホームランを打ち打率を3割3分台に戻しRBIも80の大台に乗せると信じてドジャー・ゲームを見ていたのだが・・・。

マエダのバカさ加減と守備のまずさ(ピーダーセン!マンシー!)で、5回裏、ワンアウトも取れずにロッキーズに得点を献上し続けている惨状に、ケツゼンとライヴ中継を切った。

ナショナル・リーグ西地区首位を独走するドジャースは、確実に、「ワールド・シリーズ3年連続敗退」への道を走っている。エラー数はオールスター以後急上昇。現在78失策でナ・リーグ・ワースト。ベリンジャーはMVPチャントのプレッシャーに負けてこの9試合の打率が2割に満たない大スランプ。



4番ベリンジャーの前になかなかランナーが出ないのも問題だ。殊にリードオフにピーダーセンを据える打順はビッグ・クエッション・マーク。3番ターナーも三振数が圧倒的に増えた。で、このふたりは守備が最悪の一塁手と平均以下の三塁手。ターナーはスローイングが不安定過ぎる。大舞台で必ず致命的なエラーをする。

外野手ピーダーセンの出番を増やしたくて実験的に始めた一塁コンバートは、とっくに結論が出ている。ザ大失敗。そこから失策の連鎖が始まっているのだ。正直、ピーダーセンはトレードで熨斗付けてどこかにくれてやった方がチーム力は向上する。

ブルペンはガタガタで731のトレード・デッドラインでの大改革待ち。自慢の先発も、快調だったリュとビューラーに翳りが見え、カーショーは確実にホームランを供給。マエダは、期待する方が間違っている。とにかく絶対的なエースが存在しない。ジャンセンも絶対的な守護神とは言えなくなってしまった。

ポストシーズンに進出はできても、ワールド・シリーズ制覇は微妙×3。48時間以内に期待の若手4人衆の一角を崩してブルペンは補強するだろうが、先発と内野手の補強はできないだろう。

ナニユエ、私は、日本人の99%が興味を持たないドジャースの未来の話を書き続けるのか。



日本の野球にはまったく興味は無いが、大船渡高の佐々木郎希投手問題はかなり気になった。基本的に、私は、地区予選決勝での佐々木登板回避及び打席での出場も回避させた32才監督の決断を、若造の浅知恵と弾劾する。

何が、独立リーグでの体験だ。メージャーから落ちたかつてのエース、マーク・プライアがそこにいたからなんだというのだ。彼は大舞台での無理な連投が祟ってキャリアを棒に振ったわけではない。

ドジャースで言えば、サンディ・コーファックスも、近代ならばフェルナンド・ヴァレンズエラも、「無理な連投」でキャリアを縮めたと言われている。しかし、彼らは絶頂期に最大の輝きでファンを魅了した。

佐々木投手の高校野球に於ける最大の輝きはどこにあったのか。もっと輝く可能性をはらんでいた大舞台での出番を奪った「監督判断」を褒めてはいけない。どこまで投げさせるか、どこで交代させるかの監督判断を懐に、佐々木を先発4番で送り出すべきだったと私は強く思う。

高校野球地区予選のハード・スケジュールが高校球児の選手生命を奪う危惧はわかる。が、この大船渡決勝での問題点は、高校生よりは多少の人生経験をしただけの若者が、本人の言葉を借りるならば「迷うことなく」佐々木投入回避の、いわば、オール・オア・ナッシングの決断をしたことにある。

何人かの野球評論家が指摘しているとおり、甲子園を目指す戦いはナインの戦いだ。レギュラーや補欠も含めて野球部全体の気持ちを聞いて、悩みに悩んだ末の決断ならば、私を含む大多数が納得しただろう。この指導者は大きな勘違いをしている。決勝まで進んだチームを見捨てた。愚劣の極みだ。愚劣さはゲスの勘繰りを呼ぶ。


2019/07/30 (火)

7月を生きる。

冒頭部分が7/11の末尾に入ってしまった。ボケたか。でも面倒だな。修正せず、このまま続けます。

強引に気分転換してMLB。

きょうは朝から、ベリンジャーが9試合ぶりにホームランを打ち打率を3割3分台に戻しRBIも80の大台に乗せると信じてドジャー・ゲームを見ていたのだが・・・。

マエダのバカさ加減と守備のまずさ(ピーダーセン!マンシー!)で、5回裏、ワンアウトも取れずにロッキーズに得点を献上し続けている惨状に、ケツゼンとライヴ中継を切った。

ナショナル・リーグ西地区首位を独走するドジャースは、確実に、「ワールド・シリーズ3年連続敗退」への道を走っている。エラー数はオールスター以後急上昇。現在78失策でナ・リーグ・ワースト。ベリンジャーはMVPチャントのプレッシャーに負けてこの9試合の打率が2割に満たない大スランプ。



4番ベリンジャーの前になかなかランナーが出ないのも問題だ。殊にリードオフにピーダーセンを据える打順はビッグ・クエッション・マーク。3番ターナーも三振数が圧倒的に増えた。で、このふたりは守備が最悪の一塁手と平均以下の三塁手。ターナーはスローイングが不安定過ぎる。大舞台で必ず致命的なエラーをする。

外野手ピーダーセンの出番を増やしたくて実験的に始めた一塁コンバートは、とっくに結論が出ている。ザ大失敗。そこから失策の連鎖が始まっているのだ。正直、ピーダーセンはトレードで熨斗付けてどこかにくれてやった方がチーム力は向上する。

ブルペンはガタガタで731のトレード・デッドラインでの大改革待ち。自慢の先発も、快調だったリュとビューラーに翳りが見え、カーショーは確実にホームランを供給。マエダは、期待する方が間違っている。とにかく絶対的なエースが存在しない。ジャンセンも絶対的な守護神とは言えなくなってしまった。

ポストシーズンに進出はできても、ワールド・シリーズ制覇は微妙×3。48時間以内に期待の若手4人衆の一角を崩してブルペンは補強するだろうが、先発と内野手の補強はできないだろう。

ナニユエ、私は、日本人の99%が興味を持たないドジャースの未来の話を書き続けるのか。



日本の野球にはまったく興味は無いが、大船渡高の佐々木郎希投手問題はかなり気になった。基本的に、私は、地区予選決勝での佐々木登板回避及び打席での出場も回避させた32才監督の決断を、若造の浅知恵と弾劾する。

何が、独立リーグでの体験だ。メージャーから落ちたかつてのエース、マーク・プライアがそこにいたからなんだというのだ。彼は大舞台での無理な連投が祟ってキャリアを棒に振ったわけではない。

ドジャースで言えば、サンディ・コーファックスも、近代ならばフェルナンド・ヴァレンズエラも、「無理な連投」でキャリアを縮めたと言われている。しかし、彼らは絶頂期に最大の輝きでファンを魅了した。

佐々木投手の高校野球に於ける最大の輝きはどこにあったのか。もっと輝く可能性をはらんでいた大舞台での出番を奪った「監督判断」を褒めてはいけない。どこまで投げさせるか、どこで交代させるかの監督判断を懐に、佐々木を先発4番で送り出すべきだったと私は強く思う。

高校野球地区予選のハード・スケジュールが高校球児の選手生命を奪う危惧はわかる。が、この大船渡決勝での問題点は、高校生よりは多少の人生経験をしただけの若者が、本人の言葉を借りるならば「迷うことなく」佐々木投入回避の、いわば、オール・オア・ナッシングの決断をしたことにある。

何人かの野球評論家が指摘しているとおり、甲子園を目指す戦いはナインの戦いだ。レギュラーや補欠も含めて野球部全体の気持ちを聞いて、悩みに悩んだ末の決断ならば、私を含む大多数が納得しただろう。この指導者は大きな勘違いをしている。決勝まで進んだチームを見捨てた。愚劣の極みだ。愚劣さはゲスの勘繰りを呼ぶ。


 a-Nikki 1.02